”郷拳(ごうけん)会空手道場”と一枚板に黒々と墨で書かれた看板のかかった建物の前に、今井竜次(いまいりゅうじ)は立つ。
梅雨明けしたばかりの昼下がり。周りではうるさいくらいにセミが鳴いている。大きなガラス戸を押して中に入ろうと、取っ手に手をかけたところで躊躇する。
もう何度となく出入りしてきた場所だが、こんなに重い気持ちで訪れるのは初めてだ。

竜次は一度、ゴクリとノドを鳴らし、アゴに伝う汗を手の甲で乱暴にぬぐう。中に入らねば、話にならない。覚悟を決めて来たはずだ。
「よし」
両手で両ほほを叩いて、気合をいれて中に入る。

受付で名前と来意を告げれば、ほどなく奥から道着姿の若い男が出てくる。
「押忍。ご案内します」
靴を脱いで男が用意したスリッパに履きかえ、あとを付いて階段を登る。男はスイスイと登っていくが、竜次はヒザをかばうようにして、一段一段ゆっくりと登る。

最上階までなんとか登って、”会長室”とプレートの貼ってある一番奥のドアの前へ。
「押忍。会長、おつれしました」
ドアをノックした男の声に、中から応えがある。
「どうぞ」
男が開けたドアから中に入る。深々と頭を下げてドアを閉める男と一瞬、目が合う。男の目には尊敬と、少しのあざけりの色も含まれているように見えたのは、竜次の考えすぎだろうか。

ドアが閉まったのを確認して、部屋の奥に目を向ける。
「押忍。お久しぶりです、中郷(なかごう)会長」
部屋の奥、大きな窓の前に執務机が据えてあり、初老の男が座っている。
「久しぶりやな」
丁寧に頭を下げて挨拶すれば、立ち上がって近づいてくる。

この小柄で還暦を過ぎた男が、郷拳会空手道場の会長、中郷だ。歳を重ね、どこまでが額か年々分かりづらくなっている風貌とはいえ、全身から発せられる強い気は昔から変わらない。
中郷率いる郷拳会は各地に支部があり、下は幼稚園生から上は70代まで、学生、女性、社会人と多くの道場生がいて、中にはプロの格闘家を目指す者もいる。
竜次もまた、この郷拳会からプロの格闘家になった一人だ。

「立ってんと、座れ」
「押忍」
子どもの頃から何かと目をかけてもらった中郷だから、身長も体重とも遥かに凌駕する今となっても頭があがらない。素直に応接セットのソファに座る。

「で、今日は何の用や?」
相変わらず、無駄話はしない人だ。いきなり本論を聞き出そうとする。だが、言い出しづらい頼み事をしようと思って来た竜次にしてみれば、ありがたい。
「押忍。実は、復帰の相談で来ました」

「復帰?」
聞いたとたん、中郷の顔が曇る。それも仕方がない。
竜次が郷拳会から総合格闘技のジムへ移ったのが8年前。以来、実績を積み上げてプロ格闘家として活躍してきたが、昨年末のイベントでヒザを故障してしまった。
診断の結果、幸い手術の必要まではなかったが、それでも治療に専念して試合には出るなと医者から申し渡された。

治療期間は最低半年。その間試合のできない竜次を、ジム側は練習生に格下げした。これではプロとして試合に出られない。
再びプロとして活躍するためには、またイチから実績を積み上げなければならない。竜次は今年27歳。ケガを治療して実績を積むには、歳をとり過ぎている。

中郷もその辺りの事情がよく分かっているから、顔を曇らせたのだろう。竜次自身も痛いほど分かっている。
「今井。本気で復帰したいて思てんのか?」
「押忍」
訊かれて、即答する。

ヒザの状況、竜次の年齢、プロ格闘家の厳しさ。それらを知る誰もが、竜次の復帰を絶望視している。
だが、竜次は諦めきれない。
「俺は練習生に落とされて、ジムをクビになったも同然です。まんまやったら、引退するしかありません。せやさかい、なんとか会長のお力を借りて復帰の道を模索したいて思てます」

「またイチからやり直すんか?」
「押忍」
そう、何年かかろうが何度落とされようが、ここで辞めるわけにはいかない。竜次にはその理由がある。周りに無理だと言われても、引退をすすめられても、この部屋に案内した若い男がそうだったようにバカにされあざけられても、格闘技の世界にしがみつきたい。

真剣な竜次の目と、腹の底からの返事を確認して、中郷は小さくため息をつく。
「ちょお、待っとけ」
立ち上がり受話器を取ると、短いやりとりをする。ほどなく、会長室のドアがノックされる。
「押忍。谷本(たにもと)です」
「入れ」
道着姿の男が入って来る。

「谷本師範代。お久しぶりです」
竜次は立ち上がって深々と頭を下げる。
「おお、今井。元気やったか」
入って来たのはこの道場の師範代、谷本だ。30代半ばで堂々とした体躯をしているが、強面のわりに面倒見のいいところがある。

今も竜次に寄ってきて、力強く握手する。谷本から空手の指導を受けて数年経つが、離れていた時間を感じさせない、親しみのこもった笑顔だ。
竜次もまた、ほほを緩めて握手を返す。
「谷本。挨拶はええから」
「押忍」

中郷にたしなめられ、首をすくめて苦笑する。
「谷本。やっぱり今井は復帰したいそうや」
「やっぱり。今井やったらそう言うやろと、思てました」
どうやら竜次の決意も思惑も、中郷と谷本にはお見通しだったようだ。
「これ持って、連れていったれ」
「押忍」
中郷は執務机から封筒を出すと、谷本に渡す。

「今井」
「押忍」
呼ばれて中郷の顔を見る。
「復帰のためには、まずケガを完璧に治さなアカン。ええ先生を紹介するさかい、谷本と一緒に行ったらええ。けど、」
と、中郷は真顔になって、
「そこに行ったら必ず治るて保証はない。現実を思い知らされるだけかもしれん。それでも、ええんか?」

「押忍」
何でもいい。復帰できる可能性が少しでもあるなら、それにかけてみたい。竜次は大きく頷く。
「アホやな」
そんな竜次を見て、中郷は目を細める。
「もっと楽な人生、なんぼでもあんのに、苦労する方ばっかり選んで」

「押忍。アホは郷拳会で十分鍛えられましたさかい。筋金入りのアホです」
「それもそうやな」
それを聞いた中郷は頭をつるりと撫でて、豪快に笑いとばした。



着替えた谷本の運転する車に乗って、郊外へ向かう。幹線道路から1本入った住宅街の一角で、車を停める。
「ここや」
集合住宅の1階部分に”わに整骨院”と看板が出ている。医者を紹介されるものとばかり思っていたが、そうではないらしい。

「師範代。ここは?」
「ああ。整骨院や。ここの先生、厳しくて怖いけど、腕は確かやさかい」
強面の谷本が”怖い”と評する”わに整骨院”の先生だ。ワニのように獰猛で、恐ろしい面構えの中年男性の姿を想像する。

日も暮れたこの時間、診療時間はとっくに終わっているのか、ガラス張りのドアにはカーテンが引いてある。だが、谷本はかまわずドアの脇にあるインターフォンを押す。
「はい?」
すぐに男の声で応えがある。
「あ、先生。郷拳会の谷本です」
名乗っただけで通話は切れる。どうやら事前に用件は連絡ずみのようだ。ほどなく中に灯りが点いてカーテンが開けられる。

「どうぞ」
中からドアを開けたのは、30代前半とおぼしき男だ。薄緑色でエリの立った施術着を着ているので、この整骨院のスタッフだろうか。
竜次と比べればコブシひとつ違うが、それでも十分に長身で細身の体をしている。肩にかかるくらいの黒髪をひとつに束ね、涼やかな切れ長の目に通った鼻筋、小さいアゴと整った顔立ちをしている。
・・・キレイな、人や。
自分より年上の、それも男相手に”キレイ”と表すのは可笑しいかもしれないが、竜次は男の白い横顔を見つめてそう思う。

「谷本さん。この人が?」
「押忍。お話してた今井竜次です」
切れ長の目に、まっすぐ見据えられる。その瞬間、震えがくる。
「い、今井竜次です」
なんとか、名前だけ伝える。

「院長の和仁啓志郎(わにけいしろう)です」
「和仁? あんたが!?」
恐ろしい面構えの男性を想像していた竜次は、驚いて啓志郎の顔を凝視する。

「とりあえず、いっぺん診してもらいましょか」
そんな竜次に一瞬、厳しい顔を見せて、啓志郎は奥の部屋に続くドアを開けた。




  2013.10.30(水)


    
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