悲哀のアレトラ


 女は走る。
 追われる身。走ることに慣れぬ白く嫋やかな足は、彼女の体中を駆け巡る恐怖によって突き動かされていた。背後に、彼女は怒号を聞いているのだ。既に遙かに遠ざかったはずのその怒号、叫声……それらを耳元に感じながら、彼女は走る。
 岩肌を剥き出しにした荒れ山の、緩やかな山道を駆け上る。途中、腐りかけた木の看板に突き当たり、女はその消えかけた字に僅かに目を落とし、息荒く、ふらついた足取りで向きを変えた。女は顔を上げ、その目に目的の場所を認めると、なお足を速めて一目散に駆け出した。
 そこは、<毒王領>と呼ばれる料理店だった。
 女がその店の前に辿り着いたときには、女は既に、自分は何のために何を恐れていたのかも分からない状態となっていた。恐怖と哀しみが、どうやら彼女の精神を炙り始めていたらしい。
 女は静かに涙を流しながら、<毒王領>の扉を叩く。クローズの札のかかった扉を、ひたすら叩き、呼びかけた。そうして、いくらもしないうちに、一人の女が扉を開けた。
「これはこれは、アレトラ様。そのように慌てられて、どうなされました」
 黒い髪の女であった。アレトラと呼ばれた女よりも、ずっと若く、まだ十代も半ばと見えた。落ち着き払った様子でアレトラを迎え入れると、店の女は奥へ主人を呼びに行った。
 しばらくして、奥から男が出てきた。栗毛の、実に美しい男であった。
 アレトラは、涙に濡れた目を見開いて、それから一層大粒の涙を瞬きと共に落とす。そうして、嗚咽混じりの声で、男を呼んだ。
「嗚呼――、毒王様。わたしは、わたしは……?」
 彼女は、そうして異変に気づく。自分が何によってここへ追いやられたのか、自分はどうして彼を頼ることとなったのか、彼女はもう覚えてはいないのだ。困惑し、不安を覚え、意識は隅の方からじわじわと燃え広がる。まるで、紙が燃え落ちていくように。
 燃え落ちて、それでも彼女の心の焼き付いているもの、その何物にも消せぬ想いがあった。
「わたしは、愛していた。わたしは、愛されたかった。愛して……いたかったの……」
 それだけ言うと、彼女は、運命を呪うような、すばらしい悲鳴を歌いあげたのだった。

◆ ◆

 女たちは、みんな美しいものを欲しがったし、美しくなりたいと望んでいた。美しさに憧れを抱く一方で、それが自分の手に入らないとなれば嫉みもした。手に入っても、まだ、もっと、とさらに望んだ。美とは、女にとってすばらしい宝であった。
 それは時に、どんなものとも天秤にかけられた。中には道徳的に秤にかけて良いものではないとさえ思えるものとまで、引き替えられることとなった。傍から見れば、常軌を逸しているとさえ思うような話も少なくはなかったが、当人たちにとっては、そうまでして得たい宝であったのである。
 美しいと言えば、忘れてはならない存在が、舞台の上の存在だった。俗世とは切り離されたその世界を、人々は羨望と崇拝の眼で見たものだ。
 或る一時代、その眼差しは一人の歌姫に向けられた。
 喜怒哀楽、どれをとって歌わせても、彼女は誰よりも巧く歌い、人々を魅了してみせたものだが、その中でも彼女は哀しみの表現者としては天才的だった。観客たちも悲劇が好物であったから、彼女の評判と言えば、彼女の一座の劇場がある町に留まらず、国中に広がり、王の耳にも入るほどであった。
 結婚相手には名家の子息までもが名を上げた。身分不相応の恋もあった。相手は王の近臣の子息、その歌姫の身分ではどれだけ美しかろうと男の周囲が決して許さなかった。歌姫自身、自分の身分では妻として相応しくないことを十分に承知していたし、周囲の反対を押し切った所で、いつか男の足かせになることや、不相応の身のためにいつしか自分自身命を落とさないとも限らないと思った。互いのために、愛を貫くべきではないと、彼女は自ら男に別れを告げた。
 その後も、やはり美しい歌姫に求婚は絶えなかった。しかし彼女が、自分が演じる役ほどの身を焦がす恋を求めていたのに対して、実際にそのような恋に二度も巡り会うことはなかった。二年ほど、彼女は舞台に専念し、結婚相手を探すことを放棄していた。
 しかし、彼女はやがて幸福を得た。
 凍てついてしまった恋心を融かしたのは、北西から来た商人だった。内陸の都市の劇場街で生まれ、舞台の上で育った彼女は、海を知らなかった。その彼女に、海をみせた男である。
 歌姫は暫くして舞台を降り、歌姫ではなくなった。彼女は、商人の花嫁として北西へ渡ることとなった。花嫁は名をアレトラと言い、彼女を得た幸福な商人はジャゴーと言った。

 旅程は、まず馬車で劇場街を出て北の港町へ向かい、そこでジャゴーの所有する船に乗って彼の郷里へ向かうというものだ。順調にいけば馬車で二日、船に乗ってからさらに十五日だとジャゴーは言った。既に、港町では彼の船の船員が、食糧やアレトラのための家具を船に積んでいるという。
 港町へ向かう途中、アレトラはまだ見ぬ彼の郷里はどんな所かと尋ねた。
「お前のいた町とは匂いも風土も全く違う。劇場街のように華やいだ所はないが、穏やかな時間が流れる場所だ。お前には少し物足りないかもしれない」
 ジャゴーは、そう言ってアレトラの肩を抱いた。
「あなたがいて下さるなら、何処へ行ってもわたしは幸せでございます。あなたがおられない所にいるのが、わたしにとって一番の退屈なのです」
「退屈などさせようものか」
 ジャゴーの甘い吐息が、幾度もアレトラの耳に触れたものだった。
 アレトラは美しく、彼女自身、美しさに誇りを持っていた。彼の心を絶対に離しはしないという強い自負を持ち、ジャゴーの胸に身体を預けた。
 きっと、ジャゴーは劇場街にやって来たように、たびたび遠方の町へ行ってしまうことだろう。アレトラは夫の留守を預かり、その間、彼をのさばらせることにもなろう。しかし、それでもジャゴーの心を離さないだけの自負をアレトラは胸に抱いていた。歌姫として観客の心を掴み続けた彼女が、真に焦がれる男一人の心を掴み損ねるようなことがあるはずが無い。
 ジャゴーの愛を過信したのではない。これまで彼女は、愛した分だけの愛情を受けることを当然のことと思って生きてきた。彼女は、それだけ人に愛された女性であったし、愛すべき人格者であった。愛を失った事がなければ、愛を失う恐怖も知らぬ。彼女にとってそんな愛の哀しみは、空想上、演じた役の上の事でしかないのだ。
 アレトラは、ただ一心に、愛する男との幸せな生活を思い描いていた。遠く海の向こう、見たこともない遠方の田舎町で暮らす事への不安は少しも無かった。ジャゴーへの愛には、それしきのことは障壁ですらなく、むしろ、まだ見ぬ彼の生まれ育った土地を、我が故郷のように愛していた。
 彼女はジャゴーの体温を感じながら、山道を越え、海をも越えて、夫・ジャゴーの故郷へとやって来たのである。
「ここが、あなたの故郷?」
 船を下りるアレトラを支えながら、ジャゴーは苦笑した。
「そうだ。俺と来たことを後悔しているか?」
「いいえ。言ったでしょう? あなたが一緒にいて下さるならば、わたしは何処であっても幸せなのだと」
 アレトラは答えた。
 後悔とは言わないが、驚いたことは確かだ。ジャゴーの故郷は、ベルベドという村で、そこはアレトラにとっては何もない土地だった。ショッピングに繰り出すにも店はなく、劇場の一つもない。劇団も、楽団も、もちろんこの村には存在しない。海を望む丘に、十数軒の家がぽつぽつと建ち、近くに広い畑があるだけだった。
 港も狭く、聞けば村の漁師の舟と、ジャゴーの船がここに停泊するばかりだという。ジャゴーは穏やかな時間が流れる場所だと言ったが、アレトラから見れば、時間の概念を必要としない、文明から隔絶された片田舎と見えた。
 けれども、今までの、忙しく動き回っていた劇場街の日々を思うと、長閑すぎるこのベルベドでゆっくりと老いてゆくことも悪くはないと感じていた。平常な精神で考えたならば、そうは思わなかったかもしれない。しかしアレトラは、そう感じるほどにジャゴーに心酔していた。
 ジャゴーの家は、村の中央を走る通りの先にある。村ではもっとも大きな家で、豪商らしく都市部の名家の屋敷と比べても見劣りのしない荘厳な構えであった。
「ここが、あなたの家? とても大きなお屋敷なのね」
「お前が来ると決まった頃から、お前のために増築をした。お前には、真新しい部屋をくれてやろう。衣装部屋にでも何でも、好きに使うが良い」
 自信に満ちた表情でジャゴーは言う。
 村は確かに田舎ではあるが、ジャゴー自身は、都会の貴族と言っても通用する財力と、それを成した商才を持っている。彼はアレトラを娶る以前、よく「俺はアレトラを娶るに相応しい屋敷をもっている」と言ったものだった。
 ジャゴーの屋敷は他の家々とは一風変わって、アレトラの馴染んだ南の都市部の建造物の雰囲気を持っていた。屋敷の中も、見たことのない文様や色彩を持つ絨毯や置物などがところどころに見受けられる。彼はきっと、劇場街の他にも、アレトラの知らない遙か遠方の地をいくつもいくつも商いの場としてきたのだろう。
 彼の纏う知らない土地の匂いも、アレトラが彼に惹かれた一つの要因であった。
 アレトラのために増築したという箇所は、全部で三部屋だ。二階には、夫婦の寝室と隣接して、海を望むベランダのある広い一部屋。一階には小部屋を二つ。その他にも、もう一箇所、アレトラのための特別な場所だと言ってジャゴーはアレトラを案内した。
「こっちだ、アレトラ。見るがいい」
「まあ……」
 アレトラは、一目見て、感嘆の声を漏らした。
 目にも鮮やかな色とりどりの花が、一面に広がっていた。アレトラは、野に咲く花の名を知らない。男たちが寄越す花の名をいくつか知っていたくらいのものだ。だから、少し見ただけではどの花が何という名なのかも知りはしない。けれども、見事な庭である。そう思った。
 屋敷から伸びる白い敷石の通路の先は二つに分かれ、正面は大きな池に、そして、右手へと伸びた先にはあずまやが建っているのだった。そのあずまやの柱と屋根には、蔦のように赤い薔薇が纏わり付いている。
「あずまやを見てきても良いかしら?」
 胸を弾ませながらアレトラはジャゴーに尋ねた。アレトラは、美しい庭園をすっかり気に入ってしまった。特にあずまやには、一目で惚れ込んでしまったのである。
 ジャゴーは、そのアレトラの様子が期待通りだったと見えて、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんだとも。さあ、案内しよう」
 ジャゴーに手を引かれ、アレトラはあずまやへと足を運ぶ。あずまやは、真新しい木の匂いに溢れていた。中には、白木のテーブルと二つの椅子が据えてあった。
「掛けてごらん」と、ジャゴーは椅子を引いた。
「ありがとう」
 ジャゴーはあずまやの柱に手を掛けて立ち、アレトラへと視線を投げた。
「劇場街の喫茶店のメープルミルクティーほどお前の口に合うかは分からないが、この辺りにも美味い茶葉がある。いずれお前にそいつを振る舞ってやろう」
「ええ、ぜひとも」
「ミルクとメープルシロップも、劇場街のものより美味いものをくれてやる。ここには、お前を楽しませてやれるものは少なかろうが、食い物は美味いんだ。海産物も新鮮なものが手に入る。内陸においては、どんな金持ちにも味わえなかったであろう美味だ」
「わたしも、早く家事を覚えて、あなたに美味しいものを食べさせてあげたいわ」
「すまないな。料理人を雇う金はあっても、人がいないものでな。余所から連れてこようと思っても、あまりに辺鄙な所で来たがらないのさ」
 アレトラは小さく首を横に振った。
「いいのです。そうやってわたしを甘やかさないで下さいな。わたしは、もう女優ではありません。世間知らずな女でございます。そして、あなたの妻でございます。あなたが私を思って下さる気持ちは嬉しく思いますけれども、わたしもあなたを思い、あなたの為に生きる身なのです」
 歌姫であったアレトラは、料理も家事もする必要は無かった。だから、ほとんどしたことはない。妻となる身として、相応しからぬ女であった。それにもかかわらず、求婚者は絶えなかった。どの男も、アレトラを手に入れる事さえ出来れば満足だったのだ。
 例えば、素敵な杯を持っていたなら、来客はそれを褒め称える。そして主は、すばらしい杯を持ったことを喜ぶだろう。眺めるだけでも幸福だろうか。または、主の見栄のために欠かせないものであるのかもしれない。ともかくその杯は、主の心を満たすだろう。
 アレトラは、杯だ。ものと同じだ。けれども、実際はものではない。意思を持ち、手足を持ち、心情がある。恋もする。誰かを愛しもする。ものと同じ働きしか出来ないはずがない。そして、何処の女もしていることを、このアレトラの出来ぬ事とは思わない。
 ジャゴーも、杯と同じ役目をアレトラに望んだわけではないのだろうから。
 そう信じ、アレトラは、ジャゴーの妻として、相応しい女になろうと心に決めていた。
「そうか。それは心強いことだ。しばらくは船の仲間が屋敷に滞在する。今までは奴らの方でこなしていたが、お前にその気があるなら手を貸してやってくれ。何か分からないことがあれば奴らに聞くといい」
「ええ」
 ジャゴーの船の船員は、一二人いた。
 ジャゴーと共に海を渡り、商売をする仲間だ。皆気の良い男たちで、道中アレトラにトランプ遊びなどを教えてくれた。アレトラの嫁入り道具を船に運び入れ、今船から屋敷へと運んでくれているのも彼らだ。船からは少し距離があるが、そこはさすがに力自慢の海の男たちと言えよう。文句を言うどころか、任せておけとまで言ってくれた。
 彼らは、この見ず知らずの女を、主の妻というだけで親切にしてくれた。
 彼らがしばらく滞在するのであれば、その苦労をねぎらいたい。アレトラはもう客人ではない。今日のこの日から、アレトラは屋敷の主の妻となるのだ。
「皆さん、ベルベドの方?」
「三分の一だけだ。他は、この東の方に昔栄えた港町があってな、そこの船乗り崩れだ。今は活気も失われているが、元々の規模が違うからな、今でも大きな町だ。今度、一緒に行くとしよう」
「道中船の上から見ました。確かに大きな町でしたね」
 ベルベドはぽつぽつとしか建物はないが、その町は建物が集まって立ち並び、遠くから眺めると、どうやらその町では薄桃色の屋根が多いらしく、地面はその色に染まって見える。沿岸を広範囲に渡って染め上げていたもので、アレトラも、ああ、広い町があるな、と思ったものである。
 機会があれば、是非行ってみたいものだとも。
 もう一つ、目にとまったものがある。
「ねえ、あなた、あの山の向こうには何があるのかしら」
 ベルベドの背後には、山がある。それは、麓は木々で覆われているが、上に行くにつれて岩肌を剥き出しにした禿げ山となる。山は大して高さもないのに白い靄を纏っていたが、どうやらそれは、岩肌から蒸気を吹き上げているらしかった。
「こことは隔絶されているが、歴史ある都市があるという。町の中に遺跡があるとか。あの山は、ここらでは毒王領と呼ばれている。蒸気を吹き上げるおぞましい外観だけではなく、中腹や山頂付近には毒の沼がいくつもあって危険な場所だ。山を越えるには沼地を通らなくちゃいけないし、遠回りをしてまであちらへ行きたがる人間はベルベドにはいないからな……交流もないし、様子は分からん」
「毒王領?」
「その名の通り、毒王の領地さ。といっても、大昔の話だ。当時はこの大陸がすべて領地だったというが、今では、あれっぽっち、あの山だけがその名で呼ばれる。だが、実際に毒王領地と呼べるのは――見えるか?」
 ジャゴーは山の中腹を指さした。そこには、赤茶色の建物があるのだった。
「どうしてあんなところに建物が……危険な毒沼があるのでしょう?」
「そうだな。それが、毒王の名の由来だ。あそこにいるのは毒の王様……すべての毒を支配し、すべての毒を食らう。そう伝え聞く。だけど、実際はそんな奴がいるものか。あそこには、おそらくは誰もいないさ。あそこから誰かが生活に必要なものを求めに来ることはない、最も近いベルベドにさえ」
 どうやらジャゴーは、その毒王に関する言い伝えを全く信じてはいないようだった。後になって船員たちにも尋ねてみたが、誰も彼もが、そこへ行ったこともないくせに毒王なんて昔話だ、いないのだと言った。
「ああ、雲が陰り始めた。……雨が来る」
 風が轟と唸り、ジャゴーは顔を上げてそう言った。それから、アレトラに手を差し伸べた。
「戻ろう。じきに、嵐が来る」
「はい」
 波が岸壁に打ち付ける音が、大きくなりつつあった。

 ジャゴーはアレトラに対して、いつまでも優しく、甘かった。しかし、彼にも商売がある。秋、冬を越え、海が落ち着くとすぐに、彼は再び船に乗り込んで遠方へこぎ出して行った。屋敷には、アレトラが一人で残された。
 そうなることはアレトラ自身分かっていたことだし、かえってジャゴーのいない期間こそ家事に慣れ、彼が戻ったときには頼もしい妻になったと思わせようと意気込んでさえいた。だが、彼女は思いの外はやく一人前に家事をこなせるようになり、ジャゴーが戻るまで、暇を持て余すこととなった。
 港を発ってから一月余り、ようやくジャゴーは戻った。
「寂しかったか?」
「ええ、ええ。とても」
 港まで迎えに出ていって、ジャゴーに縋り付くようにしてアレトラは泣いた。泣いても泣いても、また十日もすればジャゴーはまた海に出て行くと分かっていたうえで。ジャゴーがアレトラを気遣って、まだ商いの場を近場に限定しているということも知ったうえで。
 アレトラは、落とした涙の数だけ、
(わたしは、この人を愛しているのだ……)
 と、実感した。そして、これだけ恋しく想える夫を得たことを天に感謝しさえした。
 ジャゴーが戻って三日もすると、アレトラも甘やかさされるだけの存在ではなくなっていた。アレトラはジャゴーの目を離れて屋敷を自由に動き回り、ジャゴーや屋敷にいる船員たちの為に茶や料理を振る舞い、妻として立派に家事をこなす。そんなアレトラの様子を見てジャゴーも安心したようだった。
 そうして、また彼は、暫くすると船に乗って行ってしまった。今度は少し遠い所へ。また、長い間留守にした。帰れば、その度にアレトラは涙を流して帰還を喜び、それまでの寂しさを拭った。また、妻として、帰った彼らの苦労を労った。
 そしてまた、二十数日後に彼を送り出した。
 アレトラが屋敷に嫁いで間もなく一年になろうとしていた頃のことである。あずまやで、ジャゴーがアレトラのために遠方から仕入れた菓子をテーブルに並べ、メープルミルクティーを飲んで午後の暇を潰していた。
 来たばかりの頃は村中の人々が<ジャゴーの妻>の顔を見に来たものだったが、すっかり顔馴染みとなった今では、そうした人もいない。
 退屈な時間は、このあずまやにいることが多かった。時には、ジャゴーの本をこのあずまやに持ち込んで、花と木の香りの中で本を読むこともある。そういった暇を享受できるときこそ、ベルベドが穏やかな時が流れる場所である事を心地よいと思える。
 けれども、書庫の本も読み飽きてしまった。元よりジャゴーは、本を読む時間さえ惜しむ男だ。物語など、大した数は持っていない。堅苦しい実学の本がほとんどだ。アレトラの趣味に合うものは少なかった。
 頬杖をつきながら、アレトラは何をして暇を潰せば良いのかと思案した。こうなってしまったら、穏やかな時間の流れがもどかしくて仕方がない。そんな時分に、ふと、あの蒸気を吹き上げる禿げ山が目に入ったのだった。

「おや、奥様、何処へ行きなさるんです?」
 屋敷から出て間もなく、畑にいた若い農婦に声をかけられた。ベルベドは小さな村だ。村人全員の顔を覚えるのも容易い。それに加えて、アレトラは誰よりも洒落た服を着ていたのだから、通りを歩けばこれほど目立つ者はいなかったろう。
「すこし、お散歩に。ねえ、あの山は何処まで人の足で入っていけるのかしら?」
「まあ、やめてくださいな。ジャゴーが戻ったときに、奥様がお怪我でもされていたとしたら……」
「危険な場所へは踏み込みません。ちょっとした散歩ですもの。ですから、何処まで人の足で入っていけるのでしょうか、と」
 そう尋ねると、渋々農婦は山を指さして言った。
「あの、赤煉瓦の屋敷の辺りまでなら……」
「毒王領?」
「ジャゴーから聞いたんですね。たしか、あの辺にある展望台までは道がついているはず……けれども、道を外れるのはいけませんよ。展望台のすぐ向こうからもう沼地が広がっているんです」
「ええ、分かりました。ありがとう、今度またお茶にいらしてね」
「はい。お気を付けて、奥様」
 手を振って、別れた。
 彼女は、村の中で生まれて、村の男へ嫁いだと聞いた。若い娘は、アレトラを含めてもたった四人。彼女たちとの茶会は実に幸福な時間であったが、彼女たちは皆アレトラほど暇を持て余してはいない。彼女たちの存在があろうとも、アレトラの渇きを潤すことが出来るわけではなかった。
 アレトラは、村の大通りを抜けて、山へ向かった。
 屋敷から見上げた山もとても近いと思えたが、実際に歩いてみても気疲れを感じぬうちに麓へと辿り着いていた。距離がそれほど短かったという事もあるだろうが、道中の見たこともない花や景色にいちいち心を投げかけていたためでもあるだろう。
 上り坂に差し掛かってからは、少し辛く思えたが、アレトラは長いこと舞台に立ち続けてきたこともあって、体力には自信があった。さすがに一年ほど屋敷に押し込められていたせいもあって、少しは衰えを実感することにもなったけれども。
 しばらく登ると、看板に行き当たった。腐り、朽ちかけていて、字が書いてあるはずなのだがほとんど読むことは出来ない。そこで道が二股に分かれていることから、片一方は展望台を、片一方は毒王領と呼ばれる家――もしくは、この先に広がる毒沼を指し示しているのかもしれない。
 山には、麓からしばらくは木も生えていたが、この辺りまでくるともう禿げ上がってしまっていて、時折、ぽつぽつと見たこともない草花が生えているのを目にした。道の続く左右を見渡せば、何処に展望台が、何処に毒王領があるかは一目瞭然である。
 アレトラは、胸が騒ぐ思いがしていた。
 本当は、初めてジャゴーの話を聞いたときから、ずっと気になっていていたのだ。あの、毒王領と呼ばれる場所が。けれども、何故だか、行ってはいけない場所のように思えた。誰も行くなとは言わないが、あそこには毒王などいないのだと笑い飛ばす。行ったことがあるかと聞けば、めっそうもない、と。
 不思議にも、行く事への背徳感さえ芽生えていた。しかし、どうしても気にならずにはいられないのだ。気にしないようにと思えば思うほど、毒王領などという不気味な名を冠したその屋敷が気になってしまう。
「行ってしまえばいいのだわ。行って、確かめれば良い。誰もいないことを、毒王など存在しないことを。そうしたら、もう気になることもなくなるもの」
 そう自分に言い聞かせて、アレトラは毒王領へと続く道を歩み始めた。毒王領は展望台よりもさらに高い所にある。緩やかな坂をさらにしばらく登る。道を目で辿る先には、毒王領と呼ばれる建物の全貌が確認できた。
 赤茶色の煉瓦の家だ。黒い鉄柵で敷地を囲み、その中には、小さな畑らしいものもある。近づくにつれて、皆があそこには誰もいないと言った言葉が覆されていくように思えた。畑も荒れた様子はないし、家も廃屋とは思えないほどの生気を放っていた。そして、アレトラのその疑念を確かなものとする事も起きた。
 アレトラが鉄柵に囲われた敷地内へ足を踏み入れんとした瞬間、煙突が、煙を吐いた。
 ――ああ、やはり、人がいるのだ。
 目に映る毒王領は、何処にでもある普通の屋敷だ。人が住んでいる。そうして、その温かみがあって、不気味さなんてちっともない。少し、残念な心持ちだった。
 その名にふさわしい、おどろおどろしい風体の屋敷かと思えば、なんと言うことはないのだ。
 人がいると分かったからには、これ以上踏み込むことも出来なかった。それが名も素性も平凡な人間であれ、毒王を名乗る者であれ、興味だけで押しかけていくのは無作法者のすることである。
 踏み出しかけていた足を、アレトラはすごすごと引き下げた。
 踵を返そうとしたとき、ふと、白い扉にかかった木の札に目がいく。「クローズ」と書かれた札だ。ここは店なのだろうか、と思い足を止めている時、不意に扉は開いたのである。
「あら、今日は」
 黒い髪の女がそこにいた。
「ごきげんよう、こちらはお店なのですか?」
「ええ、料理店です。今は営業しておりませんが、どうでしょう? お茶でも」
 女は、アレトラを招くようにドアを開け放ち、閉まらぬよう押さえて立つ。店内は、なるほど料理店らしく、テーブルと椅子がいくつもあった。
 彼女に導かれるままに、アレトラは店内へ踏み込んだ。店内は、甘ったるい匂いでいっぱいで、料理店と言うよりは菓子店とでも言った方が相応しいようにも思う。今は営業していないというから、奥で何か菓子を拵えているのかもしれない。
 女は、アレトラを窓際の席に案内すると、「ただいま、お茶をお持ちいたしましょう」と言って、奥へ入っていった。入れ替わるようにして、奥からは栗毛の男が出てきた。目鼻立ちの整った、睫の長い、実に美しい男だった。顔立ちはやや中性的で、男装の麗人とも見紛うほど。その眉の凜々しいのと、体つきを見やって、なるほど男らしくも思えるが、役者にでもしたら、女たちが狂ったように崇拝したであろう美しさだった。女が奥に消える時、僅かに頭を下げたから、どうやら彼が店の主人なのだろうと思われた。
「ようこそ」
 と、男は言い、アレトラの向かいに座った。
「あなたの名は?」
「アレトラと申します。アレトラ・バルドと」
「そう、アレトラ、ね。それで、あなたはベルベドから来たのかい?」
「ええ」
 男は、僅かに頬を綻ばせた。
 感情の伴わない笑みだ。不自然な作り笑顔というわけではないが、まるで人形の笑みのように生気の抜けた作り物臭さを感じる。その笑みで、彼は言葉を続けた。
「あなたも、私のことを聞いてやって来たのだろう?」
「では、あなたが毒王様なのですね」
 彼は、「そうだ」と言って頷いた。
 毒王は本当にいた。昔の言い伝えだけの存在ではなかったのだ。聞く人聞く人、皆毒王などいないと言って笑い飛ばしたけれども、彼らは可哀想に本当のことを知らないのだ。アレトラは、皆が揃って否定したことが事実であったのが、面白くて、可笑しかった。
 その一方で、少し毒王の言葉が引っかかった。
「でも、あなたの口ぶりからして、他にもここを訪ねた人がいたのですか? 皆、ここには誰もいない、毒王なんて存在しないと言ったのに……」
「この扉は、女にしか開けられないように細工をしてある。男が尋ねてきても、彼らには廃屋にしか見えないだろうし、扉を開けることも出来ない。だが女には、あなたが見たであろう通りに見える。尋ねてきた女たちには、黙っているように言ってある。あなたにも、黙っていて貰わなければならない」
「どうして黙っていなければならないのでしょう」
「私に男は不要だ。今まで通りでいる方が楽でいい。ただで黙っていろとは言わない。私は、女たちの苦悩を食ってやれる。あなたが望むのなら、あなたの苦悩をも食ってやろう」
「まあ、面白いことを仰るのね」
 アレトラは、毒王の言う言葉を真実として受け止めてはいなかった。毒王と名乗る男が存在していても、伝承では彼は毒を食らうというが、彼がその通りの存在であると信じたわけでもない。冗談のつもりで、アレトラは毒王の話に乗っかった。
「では、私の退屈を食べていただける? 遠方からベルベドに嫁いで来たというのに、夫は仕事で私を放ったきり。もう何をして暇を潰して良いのか分からないわ」
「旦那は海賊か何か」
「馬鹿を仰らないで。商人よ。夫はジャゴー、大商人なの。彼はいずれこの大陸一番の大商人になるんですって、もう忙しくて忙しくて……」
 そのジャゴーの多忙と引き替えに、アレトラは退屈している。妻としては夫に仕事がある事を喜ぶべきなのだろうが、ジャゴーの多忙を恨めしくも思っていた。
「それでこんな美人を放置するとは、価値の分からない男だな。では、どうする? 寝室にでも案内しようか」
「ご冗談を。私は夫を愛しておりますわ」
「そうか。それは結構。では、あなたの退屈を紛らわす相手には、私の従者を貸してやろう。あなたよりもいくらか幼いが、私よりは若い女の方が話し甲斐があるだろう」
 そう言って、男は立ち上がった。ちょうどその時、黒髪の女が奥からティーセットと菓子を持って戻って来た。
 立ち上がった男は「あなたも、いつか私を必要とするだろう」と言った。それが、アレトラがいずれ苦悩するだろうという事を彼が言っているのは分かったけれども、そんな日が来るとも、その苦悩を彼が解消できるとも思っていなかった。
「ええ、ではその時に力をお貸し下さいまし」
 そうは言ったが、アレトラにはそんな日など来ないという自信があった。確かにジャゴーとの距離は離れているが、二人は愛によって固く結ばれていると信じていたのだ。
「退屈しのぎにはいつでも来るといい。この女も暇を持て余している。そうだろう、キヨコ」
 彼がそう呼びかけると、キヨコと呼ばれた黒髪の女は、ティーセットをテーブルに置いて、主人とアレトラの顔をそれぞれ見てから、微笑んで「はい」と返事をした。
「ではアレトラ、またいずれ会おう」
「はい、また」
 毒王は奥へ行ってしまった。それからしばらく、キヨコという従者と話をした。
 聞けば、村の女たちも暇があれば度々やって来るという。何の為にやって来るとは言わなかったが、彼女たちは毒王の良い客らしい。
 この毒王領の話、毒王の話、そして、他愛ない女同士の話……。下らない話をしているうちに、日が傾きはじめ、窓からは西日が差し込んできた。
「もうこんな時間なのね。ごめんなさい、今日はお休みだったのに」
「構いませんよ。どうせいつも休みなんですから。オーナーの機嫌が良いときだけが営業日ですもの」
 彼女はそう言って笑った。
 彼女の言葉は本当だった。その後も、退屈に絶えきれなくなる度、毒王領へ足を踏み込んだ。けれども、オープンの札がかかっていることなど一度もなかったし、何か料理を頼むこともなかった。
 アレトラはキヨコと下らない話をし、時折顔を見せる毒王と言葉を交わして、しばらくすると帰っていった。度々出かけていくことを、ベルベドの村人もはじめは怪しんでいたようだが、外から嫁いで来た若い娘が土地に興味を持っているのだろうと、次第に良い方へと解釈していった。
 それでも、毒王を知るという女たちには、何処へ行っているのかは分かっていたかもしれない。けれども、彼女たちも、毒王に黙っているように言われているのだろうし、キヨコの口ぶりでは言えぬ理由があるようだった。
 料理店までは少し遠くも感じられたが、退屈しのぎには良かった。

 ジャゴーが、帰ってきた。秋頃のことである。
 幸いにも、ジャゴーは来春まで船は出さないと言った。冬が来ると、ベルベドの辺りでは海が凍って航行できなくなる。アレトラがこの屋敷に来たのは、去年の秋の初めであったから、嫁いでちょうど一年にもなっていた。
 この頃のジャゴーは、少し思い詰めた様子を見せることが多かったが、それでもアレトラが顔を見せるときは何でも無いかのように振る舞った。このことをジャゴー自身に尋ねても埒が明かないため、屋敷に滞在している船員たちにジャゴーはどうしたのかと尋ねると、彼らは、
「春頃に向けての取引がうまくいかないかもしれない。でも、奥さんの気にする事じゃありませんよ。奥方まで心配なさってたら、ジャゴーの心の拠り所がなくなってしまう。だから奥さんは何も知らないふりをして、笑顔でいてやって下さい」
 と言った。
 彼ら曰く、アレトラはジャゴーの心の拠り所だという。商売の世は殺伐として、ジャゴーは鬼のようだという。今でも商売の上でそれは変わらないが、アレトラを娶ってからは、屋敷にいる間はまるで人が変わってしまったように見える、あんなに穏やかなジャゴーを見たことはない、彼らは口々に言った。
 必要とされていることは嬉しい。けれども、アレトラが自らジャゴーに何かしてやれるわけではないということが歯がゆい。何も知らないふりをして、幸福な妻を演じる。飾り物のような日々。
(わたしは人形じゃないのよ。もう役者でもない。飾り物のままでいるなんてまっぴら。あなたの役に立ちたい。でも……)
 ジャゴーの本心に触れることが恐ろしかった。
 彼は、アレトラの前では決して弱気な姿を見せることはない。あの心優しく、強いジャゴーを保っているのは紛れもなくアレトラ自身であるという自覚はあった。
 そのジャゴーが、崩れてしまうのではないか。彼の心を傷つけやしないか。そう思うと、どうしてもジャゴーの仕事に関して口を挟むことも、彼の様子を心配して言葉をかけることもできないでいた。
 けれども、ジャゴーに変化があった。
 商売がうまくいっていないせいか、春まで船を出さないと言ったのに、晩秋、突然ジャゴーは船を出そうとしていた。船員の三分の二、東の港町の者たちは、そちらで冬を越す為に帰郷していた。そのため、ジャゴーは村にいた船員たちだけを引き連れて行こうとしていたのである。
「すぐに帰ってくるから、安心して待っていろ。なに、一つ取引を終えてくるだけだ」
「あなた、たったこれだけの人数で船を出してどうなさるの?」
 思わず、アレトラはジャゴーに縋った。
 ジャゴーは東の町で船員たちを乗せる予定も立てておらず、村にいる船員たちも半ば戸惑い気味に見えた。村にいる船員はたったの四人、ジャゴーを加えても五人しかいない。これだけで、大きなジャゴーの船を動かすばかりか、商売をしてこようという。
 そうまで思い詰めた夫に、アレトラは言った。
「お仕事がうまくいっておられないのは知っております。けれども、無理に船をお出しにならないで。もう海が荒れるから船は出せないと言ったのは、あなた自身ではありませんか!」
 すぐさまジャゴーは、自分の部下たちを睨んだ。
 村の船乗りは、ジャゴーの幼なじみたちだという。ジャゴーの腹の底まで熟知した連中だというし、ジャゴーにとっての彼らもそういう存在だといった。その彼らが、ジャゴーの意思に反してアレトラに仕事の話をしたことが気にくわなかったらしい。
 彼らもまた、いたたまれなくなって、目を逸らしていた。
 アレトラは、ジャゴーの両頬に触れた。
「わたしを見て、ジャゴー」
 そう言うと、ジャゴーは驚いたように目を丸くした。
「お願い、何処へも行かないで下さい。お金ならいくらでもあります。足りなければ、家具を売れば良いでしょう? 私の部屋の家具を売って下さい。船員たち皆をしばらくは養えるでしょうに」
「そうはいかない」
「どうして!」
「これは俺の仕事だ。お前には関係ない」
 ジャゴーは、冷たくそう言い放った。
 しかし、アレトラにも、そうはいかない理由がある。海はもうひどく冷たい。それに、天候も不安定だ。全員で海に出て行けばどうにかなるという事でも無いのに、たったの五人で出て行くことなどなおさら愚行。愛する夫を、そしてこの気の良い仲間たちを失うこともあり得る。
 今の状況のジャゴーに言うべきか迷って、結局言わずにおいたことではあるが、ようやく子を授かったのだ。危険を承知で海に送り出すことなど出来はしない。
「嫌よ、行かないで下さい。何処へも行かないで」
 アレトラの手を振り払うジャゴーに、アレトラは強く縋り付いた。けれども、ジャゴーはその手を振りほどいた。そして、彼は船員たちに呼びかけたのだ。
「行くぞ」
 その言葉に応えて、船員たちもジャゴーについていった。誰も嫌だとは言わず、たった五人で船に乗って南の方へ向かって行った。

 再びジャゴーが姿を見せたのは、四日後だった。
 なりは綺麗だったが、身体は痛々しい。下ろし立てのように綺麗な服を着ているのに、傷だらけで、そこら中から包帯が覗いている。どういう経緯があったのかは知らないが、やはり無事では済まされなかったのだ。
 アレトラは彼の姿を見た途端にゾッとして、同時に、命があったことを心底喜んだ。
 ジャゴーも、アレトラを見ると、ほっと安心したように笑った。
「あなた、よくご無事で!」
 階段を駆け下り、アレトラはジャゴーを抱きしめた。すると、少し、辛そうに彼は唸った。
「あっ、ごめんなさい……怪我をなさっているのに……」
「構わない、このままでいたい。アレトラ……」
 彼もまた、息苦しく思えるぐらいの力でアレトラを抱きしめた。
 アレトラは、思わず涙を零していた。寂しさ故の涙ではない。彼が痛ましい姿で帰ってきた事への哀しみでもない。純粋に、嬉しく思ったのだ。涙は頬を伝い、顎から滴り、ジャゴーの肩を濡らした。
 ややあって、アレトラは尋ねた。
「だからあれほど無理に船を出さないでと言ったのに。ともかく無事で何よりでございます……けれども、一体何があったのですか」
 けれども、それに対する答えをジャゴーの口から聞くことはなかった。
「アレトラ、お前は俺を愛してくれるな?」
「ええ、それはもちろんですとも」
 それは、アレトラにしてみれば愚問だ。今更、言葉を以て確かめるようなことでもないので、きっと、ジャゴーは身体的にのみではなく、精神的にも疲弊しているのだろうと感じた。これだけ傷ついて帰ってきたのだ。無理も無い。
 アレトラはそう思った。そう思って、彼を抱く腕に熱がこもった。痛がるだろうと思って強くは抱かなくとも、もう離さない、それくらいの気持ちでジャゴーの傷だらけの逞しい身体を抱きしめていた。
 情け深い、優しい女であったのだ。
 アレトラが答え、しばらくしてから、ジャゴーは「ならば、俺の頼みを聞いてくれ」と言い、抱きしめる腕を放した。彼の手は、彼の腿にかかったナイフへと触れ、抜く。アレトラの目には、くすんだ銀色の刃が映っていた。
 言葉もなかった。ただ、ジャゴーが何をするつもりなのかを理解できずに、立ちすくんでいた。
 やがて、ジャゴーは、哀しそうに言った。
「来るんだ、アレトラ。俺と共に」
 彼の言葉を頭が処理して、理解して、それでも心は穏やかだった。踏みにじられた、という気持ちは不思議と湧いてこない。内心、彼を信じていたのだろう。縋るように、信じていたのだろう。彼を失うわけにはいかなかったのだから。
「そんなものをわたしに向けて、共に何処へ行けというのでしょう。わたしがあなたに何をしたというのです。妻として、何か不足があったとでもいうのでしょうか」
 いやに冷静にそう言うアレトラの腕を、ジャゴーは強く掴んだ。
 腕を引かれる。何処かへ連れて行かれるという、実感。遅れてやって来た、彼へ疑念やら、驚きやら、哀しみやら……そんなものが、じわじわと心に広がりゆく。混乱のただ中で、多感な女は、喜びの涙の渇いたあとを、哀しみ涙によって再び濡らした。
「大人しく来れば、お前に危害を加えはしない」
「放して下さいませ! 一体何処へ行こうというの……?」
「来い!」
 ジャゴーは、行き先も告げず、強引にアレトラの手を引いた。
「あなたは馬鹿な人だわ。そんなものを見せずに、ただ来いと言って微笑んでくれるだけで良かったの。それなら、何処へでもついていきました。何処へでも、冥府までも……」
 アレトラはその場に泣き崩れてしまった。両の手で顔を覆おうとしたが、ジャゴーの手は少しも緩まず、アレトラは伏せた顔を片手で覆った。
 微かに震える声で、ジャゴーは言う。
「今のうちに好きなだけ泣くがいいさ。お前はこれから、海賊の女になるんだ。暴力によって跪かせられ、屈辱を感じながらも従わねばならない」
「どうして! どうしてわたしが海賊の元になど行かねばならないの。わたしは……あなたの妻なのに……」
「お前を気に入ったのだそうだ」
 哀しみにうちひしがれて、アレトラは言葉もなくただすすり泣いた。
 しばらくの沈黙の後に、ばつが悪そうに、ジャゴーは言った。
「大金を積まれたんだ。家業を続けて行くには、家財を売るだけじゃあ足りない。それだけの金を、海賊はお前に出すと言った」
「わたしを、売ろうというのね。そう……」
 片手で、涙を拭う。それでも、止めどなく流れ出るのだ。あとから、あとから、ぽろぽろと。
 たとえ売られるのだとしても、彼のことだけは愛していたかった。彼を愛した自分のまま、心の純潔だけは守っていたかった。
 けれども、そんなことは並みの女には出来はしない。これから売られようとしているのだ。家業を辞めさえすれば、家財を売って事足りるだろうに、アレトラはジャゴーが家業を続けることと引き替えに売られるのだ。あんなに愛していると囁いたその口で、海賊の女になれという。憎らしく思って当然。愛せなくて、当然。
 いつまでも愛していたかった。愛されていたかった。
 アレトラは、ジャゴーに縋り付くようにして立ち上がると、彼の手にしたナイフに向かって身体を押しつけようとした。思いきり胸を貫いて、すぐに死にたいと願ったのだ。愛されない哀しみによって、愛せない哀しみによって、そして、屈辱的な未来のために。
 だが、ジャゴーはそれを許さなかった。
「やめろ!」
 ジャゴーは、ナイフを身体の後に隠した。
「あなたに愛されないのなら、それでも構わない。でも、お願いですから、せめて死なせて下さいな。わたしはそうしてこの操を守り、あなたにささやかな復讐をして逝きましょう。あなたは、わたしがあなたを想ったように、わたしを想ったことが一度でもおありかは分かりません。けれどもわたしは、あなたの不在の間、あなたを想って生きてきたのです。あなたを支えに生きてきたのです。そのわたしにこのような仕打ちをなさろうとするのよ、あなたは」
「そうだ。許せとは言わない。しかし、お前を死なせるわけにもいかない。お前は大事な商品なんだから」
「私はものではありません! 一人の女として、あなたを愛してここに来たのです。あなたの為に。あなたに愛して貰う為に」
 アレトラは、ジャゴーが背後に隠した腕を掴んだ。
 美しく磨き上げられた白桃色の爪が、彼の腕の肉に食い込むほどの力で掴むと、力一杯自分の方へと引き寄せた。勿論、ジャゴーも抗う。空いた手でアレトラの身体を押しのけようとしていた。
「やめろ、アレトラ! お前には生きていて貰わなければ俺が困る、アレトラ!」
 その言葉は、まるで、愛している、一緒に郷里に来て欲しいと言われたあの日のように、美しい響きを持っていた。けれども、今となっては虚しいばかりだ。人として、女としての自分を必要としているのではない、商品としての自分を求めて彼はそう言うのだ。
 信じたくなどないけれども、彼自身がそう言ったのだ。
 アレトラは、ジャゴーが掴んだナイフを奪おうとして、己の手が刃に触れることも構わず、ジャゴーの手の上からナイフを掴んだ。けれども、女の力ではジャゴーからナイフを奪うまでには至らず、揉み合ううちに、アレトラはバランスを崩してジャゴーにのし掛かった。
 ジャゴーの身体は、傷だらけだった。不意にのし掛かったアレトラの身体すら支えることは出来ず、そのまま、倒れ込んだ。
 二人の身体の間には、ナイフがあって、その刃は偶然にも、その瞬間アレトラの方を向いていた。
 これで死ぬことが出来る、と思った反面、恐ろしくもあった。今から刃が己に刺さる、痛みを受け入れる、その心の準備がまだできていなかった。死ぬのはやはり恐ろしい。心と操を守るつもりがなければ死なずとも良いのだと思うと、そちらに傾きそうにもなった。いかに気高く死のうと思っても、死に恐怖しないわけではない。
 アレトラは、平和な世界を生きた幸福な女であったのだから。
 思わず、アレトラは目を瞑って、倒れ込んだ。身体は、ジャゴーの身体の上に重なって、時はいくらも過ぎていないようにも、膨大な時間が過ぎ去ったようにも思えた。心臓が激しく脈打つ。痛みは、無かった。
 ゆっくりと目を開けると、アレトラはジャゴーの背中に寄りかかっていて、ナイフは彼の身体の下にあった。ジャゴーは動かず、血が彼の腹の下から少しずつ流れ出している。
 咄嗟に、アレトラはその場から飛び退いて、ジャゴーの傷を覗き込んだ。深く、横っ腹にナイフが刺さっている。
 流れ出した血が、床についていたアレトラの白い指とスカートを染めた。
 アレトラは、悲鳴を上げた。
 こんな形でジャゴーへの復讐を望んだわけではない。恨めしく思いはすれども、本心から恋い焦がれたジャゴーの、傷つき、倒れる姿を見て、もはやアレトラは平常心ではいられなかった。気高さと引き替えに死のうとしたことさえ、今ではアレトラにとって重要なことではない。むしろ、死が恐ろしくて堪らないのだ。目の前で、血を流して倒れたジャゴーが苦しんでいる。そんな姿を見てしまってはなおさらのこと。
 彼に刺さったナイフを抜いて、己の命を絶つような貞淑な心持ちでは、当然のこと、いられない。
 けれども、死なずにいて何になるだろう。
 ジャゴーがアレトラを庇ったのは、商品であるから。愛した女を守るためではない。愛されない女には、もう居場所はないのだ。このままここにいたのでは、海賊に売られていくことになる。もしくは、この場を何も知らぬ人々に見られたならば――。
 アレトラは立ち上がり、屋敷を飛び出した。

 この村の何処にも、アレトラが身を寄せる場所はなかった。
 アレトラがこの村で受け入れられたのは、ジャゴーの存在があった為だ。ジャゴーに傷を負わせた今、どのような背景があったにせよ、この村の者たちはアレトラを敵視するだろう。総出で、アレトラを処分しようとするに違いなかった。
 アレトラが屋敷を飛び出して間もなく、ジャゴーの部下の男が入れ替わりに屋敷に飛び込んだ。アレトラの風体を見て、察したのだろう。
 背後に怒号が飛ぶ。何を言っているのかは分からない。しかし、アレトラにとっては自分を罵る声に聞こえていた。戻れば殺されるか、売り飛ばされるかだ。もう戻ることは出来ないのだ。
 アレトラにとって、この大陸で他に行ける場所は一つしかなかった。

◆ ◆

 オーナーの腕の中で、既にアレトラは動かなくなっていた。
 半開きの目から覗く瞳は、既に何も見つめてはいない。彼女の瞳からは涙が一筋落ちたが、もう、これからは彼女が哀しみに涙を落とすこともないだろう。
 キヨコは、テーブルに温かい紅茶を注いだ二つのティーカップを置くと、椅子に座ってアレトラへと目をやった。
「アレトラはどうなさるの?」
「展示室に置いておく」
「ふうん。いいオトモダチだったのに、残念ね、アレトラ」
「残念、か。けれども彼女は、これ以上哀しむことはない。祝福してやれ」
「でも、ジャゴーも自分という存在さえもない世界で、あなたに哀しみを供給し続ける。彼女が彼女でなくなっても、哀しみだけは永遠に続く。苦しいことよ。オーナーには分からないでしょうけど」
 キヨコは温かい紅茶を口に含んで、藤の花の砂糖漬けを摘まんだ。
「分からなくとも、私は構わない。所詮は人の世の戯れ。私のような者にとって、重要なのは、彼女がこの上なく美しい哀しみを私の口に運んだという事だ。こうしてまた、私は死へと近づいていく。彼女に感謝しよう」
 オーナーは死を望んでいる。
 オーナーにそれを恐れないのかと尋ねれば恐れないと言い、何故かなのかと尋ねれば自分に必要な事なのだと言った。オーナーは人ではない。今は、不死の男である。唯一、この世で最も尊く清らかな毒によってのみ、死を迎えることが出来るのだそうだ。ただ、その毒は未だ出現せずという。
 しかし、どうやらそのために、女たちの感情を毒として蓄えているらしかった。そして、女たちの念が強ければ強いほど、強い毒へと変貌し、彼にとって至高の味となる。
 アレトラは、オーナーにとって久しぶりの食事となった。
 オーナーは、いつになく生き生きとしていた。この姿を見れば、普段のオーナーなどは死んでいるにも等しい。今だけは、彼の命を感じる。たとえ人でなくとも、命を持ったものであることを実感する。
 藤の花の砂糖漬けに、オーナーも手を伸ばした。
「美味しいでしょう?」と、キヨコは尋ねてみた。
 オーナーは、滅多に人間の食い物に手を伸ばすことはない。彼にとっては空腹を満たすことは出来ないばかりか、空腹時には人の食い物は吐き気すら覚えるという。空腹が常の彼には、滅多に食うことのないものだ。
 彼は首を傾げて「たまには悪くない」と言った。
「ねえ、オーナー、彼はこれからどうするのでしょうね」
「海賊の考える事なんて知らないさ。ただ、あの男が馬鹿な真似をしてくれなかったとしたら、私は今これほど幸福ではなかっただろう」
「彼は不器用だっただけ。本当は彼だって愛していたのに」
 海賊同士の争い事だったらしい。もっとも、ジャゴーはアレトラに自分は商人だと言っていたようだが。
 田舎の海賊風情が美しいと評判の歌姫を娶ったが、海上の蛮人たちは、それを身の丈に合わぬ花嫁と思い、喧嘩をふっかけた。結果、ジャゴーの小さな一団は簡単に潰されてしまった。ジャゴーに用意された選択肢は二つ。花嫁を差し出すか、反抗し、眼前で花嫁を殺されるか。ジャゴーの力では、第三、第四の選択肢を選ぶことも叶わず、結局、花嫁を、アレトラを差し出すことにしたのである。
 けれども、ただ従うつもりはなかった。彼女を差し出しはしても、やがて力を盛り返し、奪い返すつもりだったのだ。
 アレトラという女は、ジャゴーにとっては格上の相手にさえくってかかる要因と成り得た。あの男の率いた海賊団は小さかったが、あの男は若く、海を生きる才があった。野望さえあれば、それに伴う実力もあっただろう。時間がかかろうが、アレトラが生きてさえいれば、奪われたとて、いずれ力を付け、取り返す可能性もあった。
 だけど、あの男は、アレトラにだけは卑怯な真似が出来なかった。アレトラの想いを利用すれば、刃物を出さずとも来いと言いさえすれば来ただろうに。かといって、アレトラに今更本当のことを話すほど素直にはなれない男だった。
 オーナーは、アレトラの乱れた髪を手で整えながら、言った。
「人間たちのそう言ったばかばかしさが、私にとって何より美味いのだ」
 オーナーは、アレトラの白い首筋に口付けをした。
 そうして、彼は笑みをたたえ、したたかに言うのであった。
「さあ、店を開けるぞ。極上のスープをつくろうじゃないか」

◆ ◆

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