もう一度、手に持った携帯電話の地図と、目の前にある建物とを確認する。間違いない。ここが指定の場所だ。
・・・えらいトコや。
小犬丸由貴(こいぬまるゆたか)は、小さくため息をつく。

今、由貴がいるのはマンションの前だ。教えられた住所を、携帯電話で調べてやって来た。
マンションは市街地の喧騒から離れた、なだらかな丘にある閑静な住宅街に、辺りを見おろすように建っている。高層ではないが、一戸当たりの間隔は大きくとられ、エントランスも車寄せもホテルのように広くて清潔だ。ここに住む人の生活レベルがしのばれる造りだ。

由貴はマンションの前で携帯電話を握り締めたまま、建物を下から順に見上げる。
特殊な窓ガラスなのだろうか。外から部屋の中の様子は伺えない。およそ生活観のない景観だ。なかでも最上階の角部屋は、そこだけ明らかに他の部屋とは違う、特別な造りをしている。詳しくは分からないが、広いバルコニーに緑が生い茂っていて、さながら空中庭園のようだ。
・・・えらい、トコや。
由貴はもう一度、ため息をつく。

お金持ちばかりが暮らすこの一角は、自分のような平凡以下の人間がいていい場所ではない。できればこのまま逃げ帰ってしまいたい。気後れするばかりで、いっこうにマンションにも近づけない。
紹介されて来たがやっぱり断ろうと、由貴は連絡先の書いてあるメモをポケットから出す。

由貴がこのメモをもらったのは、3日前だ。学生の頃からバイトしている居酒屋のオーナー、植松(うえまつ)から渡された。
植松は居酒屋の他にいくつも飲食店を営む実業家だが、見かけはどこにでもいる50代のおっちゃんだ。声が大きくて押しも強い。
その植松から、知り合いが料理の出来る人を探しているが、しばらくそっちで働かないかと、こう持ちかけられた。

「はあ」
言われてすぐに内容が理解できず、由貴は困った顔を見せる。
「いや、僕のやってるバーの常連さんなんやけどな。料理作ったり洗濯したり、そんな人を探してるそうや」
居酒屋の厨房で帰り支度をしていた由貴を呼び止めて、植松は続ける。
「店とは違う、個人の家らし。まあ、言うたら、家政婦さんやな」

「家政婦さん、でっか」
確かに、由貴は子どもの頃から祖父母と一緒に暮らしていて、家事はひと通り仕込まれている。その祖父母の薦めもあって、高校卒業後には調理師専門学校に進学したので、調理師免許も持っている。料理に関してはプロだ。

だが、個人宅なのに自分のような若い男が家政婦として行っていいのか、由貴には判断がつかない。
「僕で、ええんですか?」
不安な声で訊けば、植松は明るく笑いとばす。
「そない深刻に考えんといてもええ。ただ紹介してくれて言われただけやし」
「はあ」

「場所と時間と連絡先、もろてるさかい」
そう言って、由貴の手にメモを押しつける。
「いっぺん会(お)うてみて、アカンかったらそれで構へんね」
由貴の小さな肩をひとつ叩くと、植松は豪快に笑った。

オーナーである植松には、何かと目をかけてもらっている。専門学校を卒業して調理師免許を取得したあとも、引き続き居酒屋に残って働かないかと熱心に誘われもした。
本当にありがたい話だ。
しかし、由貴は個人的な理由から今のバイト先には居づらくなっていて、近いうちに辞めようと考えていた。

だから今回の話は由貴にとっても、都合のいい話だ。それに、植松からの紹介を無下に断る訳にもいかない。
・・・会(お)うてみて、アカンかったらそれで構へんて、オーナーも言うてはったし。
先方に会うだけ会ってみようと覚悟を決めて、由貴はマンションへと足を踏み入れる。

自動ドアが左右に開いて、まず1歩。とたんに奥から、鋭い視線が突き刺さる。
「なんや、ご用ですか?」
見れば、初老のやせた男が部屋の窓から顔をのぞかせている。さすがにセキュリティもしっかりしているようで、オートロックだけではなく管理人も常駐しているようだ。

管理人とおぼしき男は、口調こそは丁寧だが、そのじつ値踏みをするように由貴を上から下まで遠慮なく見る。
「いえ、あの、僕」
とたんに、しどろもどろになる。いつもそうだ。見知らぬ人とは上手く話せない。顔を伏せて、口をつぐむ。

「はあ? なんや用があるんと違うんか?」
管理人は由貴を不審者と判断したのか、わざわざ部屋から出てくる。
「用のないんやったら、他の人の迷惑になるさかい、帰ってや」
由貴もできれば帰りたい。だが初老の管理人に、握り締めていたメモを見せる。

「あの、僕、ここに用があって、ほんで」
管理人は老眼鏡をかけると、由貴の伏せた顔を見てメモを読む。
「ああ。この部屋にご用でしたんか」
とたんに声の調子が変わる。それまでの慇懃無礼な態度から、やわらかい口調になっている。
「すぐお呼びしますさかい」
管理人室の前にあるパネルを操作して、自ら部屋を呼び出す。

「ああ。お忙しいトコ、すんません。お客さまがお見えですけど。はい、はい。わかりました」
通話が切れると同時に、正面の自動ドアが左右に開く。
「ドアを入って右手にエレベータがありますさかい、最上階まで昇って、一番奥の部屋へおいでください」
「は、はい」
手のひらを返したような態度に戸惑いながらも、由貴は小さく頭を下げて、言われた通りエレベータで最上階へ上がる。

最上階に着いて、エレベータホールへ出る。奥へと続く廊下からは、眼下に市街地が見え、遠くに山が霞んでいる。そんな開けた眺望も、今の由貴には目に入らない。
「え、と。この部屋か」
廊下の突き当りには、胸の高さの門があって、さらにその奥にドアがある。この部屋に用事があると言っただけで管理人の態度が変わったのも頷ける、そんな特別な造りの部屋だ。

由貴はメモを確認する。表札は出ていないが、部屋番号は間違っていない。意を決して、呼び鈴を押す。
「はい?」
ほどなく男の声で応えがある。
「あの、僕、植松オーナーからの紹介で来ました」

「ああ。ちょお待って」
震える声で告げれば明るい声が返ってきて、すぐに門の奥のドアが開けられる。
「どうぞ」
中から出て来たのは、30代半ばくらいの、スーツを着てメガネをかけた清潔な感じの男だ。
「え? キミが植松さんからの紹介で来た人?」
男は由貴を見て、少し驚いたようだ。 無理もない。由貴は男性にしては小柄で華奢な体をしている。目ばかり大きくて幼い顔立ちをしているので、成人した今も高校生にしか見えない。

家事の出来る人をと言われて、自分のような頼りないのが来たら、誰だって驚くだろう。もしかしたら、このまま帰れと言われるかもしれない。
「はい。あの、すみません」
「謝るコト、あれへんよ。あんまり若くて可愛い子やったんで、少し驚いただけや。どうぞ、入って」
恐縮して頭を下げる由貴に、男は優しくそう言うと、中に入るよう促す。

ホッとして、広い玄関で靴を脱いで、男のあとについてさらに奥へと進む。いくつかあるドアのうち一番奥のドアを開けて入れば、そこは広い広いリビングになっている。そして、リビングからバルコニーへと続く高い窓の向こう側は、緑にあふれている。
そこで由貴は思いあたる。どうやらこの部屋は、さっきこのマンションを下から見上げた時に目立っていた、空中庭園を持つ部屋のようだ。

「キミ、名前は?」
リビングに入るなり圧倒されて息をするのも忘れていた由貴に、男は優しい声で訊く。
「は、はい。僕は、こ、小、犬丸、由貴いいます」
どんなに穏やかな表情で優しく訊かれても、初対面の相手とは上手く話せない。言葉が途切れ途切れになって、もつれてしまう。

「ふうん。イヌマユタカくんかあ」
「いえ、あの」
「僕は岸川(きしかわ)や。僕が植松さんに家事の出来る人を紹介してくれて、頼んだんや」
岸川と名乗った男は、スーツの上着を脱ぐと丁寧に畳んでソファの背もたれにかける。よく見れば広いリビングには雑然と物が置いてあり、床もホコリだらけだ。

岸川自身は身なりが整っていて、背も高く爽やかな雰囲気だが、住んでいる部屋には頓着がないのだろうか。確かにこれでは家事を手伝う人間が必要だ。
「イヌマくん。ちょうどお昼時やし、食事の用意、頼んでもええかな」
「あ、はい」
間違った名前のまま呼ばれるが、それを訂正する勇気はない。それに、人と話すより料理をしている方がよっぽど気が楽だ。

「その辺りにあるモン、適当に使(つこ)て構へんさかい」
「はい」
ここからは仕事だ。由貴は持ってきた荷物の中からバンダナとエプロンを取り出すと、それを身に着けて丁寧に手を洗う。

「冷蔵庫、見てもええですか?」
「ああ、どうぞ」
断って開けた冷蔵庫には、いろんな食材が詰まっている。かなり雑多に押し込まれているので、キチンと整理しなければ何が入っているのか把握できない。他にもキッチンの戸棚や水屋を確認する。

不思議な事に、立派な調理器具が揃っているというのに、最近使われた形跡はない。きっと山ほどあるレトルト食品を電子レンジで温めるか、あるいはデリバリーや惣菜を買って、それを食べていたのだろう。
炊飯器もあるにはあるが、電源すら入っていない。

「なにか、できそう?」
対面式のキッチンの向こう側から、岸川が心配そうに声をかける。
「え、と。何分後に何人分、作ったらええですか?」
「できるだけ早く、3人分くらい。お願いできるか?」
「やってみます」

そこからの由貴の行動は早い。スパゲティの麺とレトルトのハンバーグを見つけて、大鍋に湯を沸騰させる。スパゲティをゆがく間にハンバーグを解凍し、手であらかた潰してフライパンへ。ケチャップと塩コショウで味を調えたところに、スパゲティを投入。
「できました」
あっという間に、ミートソーススパゲティもどきを作ってしまう。

「もうできたんか?」
リビングで片づけをしていた岸川が、驚いた声をあげる。
「はい。サラダ、あった方がええんですけど」
フライパンから大皿へ移しながら、申し訳なさそうに言う。いくら探してもキッチンには生野菜が見つからないので、野菜サラダが添えられない。

「ああ、サラダは構へん。うまそうやな」
簡単に答えて、岸川はテーブルに取り皿とフォークを3人分用意する。
・・・3人分?
料理を3人分と言われた時には、岸川一人でそれだけ食べるのかと思ったが、そうではないらしい。岸川の他にまだ、この部屋には誰かいるようだ。

使った調理器具を片づけながら、そう思う。と、岸川はリビングの奥にあるドアをノックすると、
「食事の用意ができました」
声をかける。

とたんに、中から勢いよくドアが開いて、
「うるさい!」
大きな怒鳴り声がした。




  2013.09.18(水)


    
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