"後朝(きぬぎぬ)の別れ"という言葉がある。
一夜を供にした男女が、翌朝お互いに離れ難い想いを持ったまま別々に帰途につく、その切ない心情を表す言葉だ。

南雲悠正(なぐもゆうせい)がその言葉を知ったのは、高校生の頃だったか。もう15年以上前の話だが、なんとも艶(なま)めかしい表現に胸を高鳴らせたのを憶えている。
そして、いつか自分もそんな心情を味わってみたいと、どうしようもなく惹かれあって、好きあって、離れ難いただ一人の相手に巡り会いたいと、強く願った事も。



「ん・・・」
うっすらと目を開ける。カーテンのすき間から、光がさし込んでいる。布団から手を伸ばして、枕元の時計を見れば、そろそろ起きる時間だ。
悠正は隣で眠る五福貞国(ごふくさだくに)を起こさないよう、静かにベッドから出る。

「う」
桜が咲いたとはいえ、朝早いこの時間はまだ肌寒い。パジャマの上にカーデガンを羽織って、くしゃみをガマンして寝室から出る。
まずキッチンへ行って、湯を沸かす。その間に冷蔵庫から卵とハムとチーズを出す。これでオムレツを作るつもりだ。

ここは貞国が一人で暮らす部屋だ。だが、ここに時々来て、一緒に食事をしたり泊まったりしている悠正は、冷蔵庫の中に何が入っているのか知っている。塩コショウの在処(ありか)も、皿やカップの場所も分かっている。
「よっしゃ」
フライパンから形良く出来たオムレツを皿に移して、時計を見る。ちょうど貞国を起こす時間だ。

「おい、五福」
寝室に入って、カーテンを開けながら声をかける。
「朝や。起きてんか」
「・・・何時や?」
窓からの明るい光に顔をしかめて、かすれた声で訊く。

「じき7時や」
「さよか」
つぶやいて半身を起こすと、両腕を上げて大きく伸びをする。
「すぐメシや。早(は)よ、顔洗(あろ)てき」
「ああ」

まだまだ眠たげな顔でベッドから出ると、ゆっくり歩いて寝室から出る。相変わらず、寝起きは悪い。洗面所へと行くその背中を見送って、悠正はキッチンに戻る。
朝の身支度を終えた貞国がテーブルにつく頃には、オムレツはもちろん、パンもコーヒーも並んでいる。

「ほな、いただきます」
「いただきます」
向かい合わせに座って、一緒に朝食を摂る。だが、ほとんど会話らしい会話はない。悠正はパンとコーヒーを交互に口に運びながら、貞国の顔を見る。

飲食業界に身を置く貞国は、レストランやバーなど飲食店の新規開拓事業に携わっている。長身でバランスのとれた長い手足、凛とした顔立ちと、人目を惹く容姿をしている。
パジャマを着替えて、髪を整えオーダーシャツにブランド物のネクタイを締めて新聞を読むその姿は、いかにも”仕事のデキる男”という雰囲気だ。実際、貞国は会社からもクライアントからも信頼が厚く、毎日忙しくしている。
だから、こうしてゆっくり逢うのは、本当に久しぶりだ。

「も一杯、コーヒー飲むか?」
貞国のカップがカラになったのに気づいて、そう声をかける。
「せやな」
新聞から顔も上げず、短く返事をする。

悠正は立っていって、貞国のためにコーヒーを淹れる。2杯目は量を少なく薄めに淹れる。それが貞国の好みだ。ちゃんと悠正は心得ている。
「パンは?」
「もうええ」
2杯目のコーヒーを置く。

もともと貞国は口数の多い方ではない。無口で、何を考えているのか、つき合いの長い悠正にも分からないところがある。もの静かで落ち着いていて、感情を露わにする事もほとんどない。
そんな貞国にもの足りなさや居心地の悪さを感じる時もあったが、今ではもう慣れてしまった。新聞を読む貞国の前で、悠正は時報代わりにつけているテレビのニュースを眺めている。

・・・つき合いが長(な)ごなると、こんなモンなんやろうな。
コーヒーをひと口飲んで、貞国の顔を見る。新聞をめくった貞国と、偶然目が合う。
「ああ、せや。五福」
そのまま黙っているのも気まずくて、ふと思い出した事を口にする。
「”La Pluie(ラ プリュィ)”てバー、憶えてるか?」

「”La Pluie”?」
貞国は一瞬、記憶の底を探るような遠い目をするが、すぐに思い出したようだ。
「確か、南雲が昔バイトしてたバーやな」
「せや」
”La Pluie”は知る人ぞ知る老舗のバーだ。悠正は学生時代、そこでバイトをしていた。

「バーテンダーで岸さんて、おってはったやろ。あの人、今月いっぱいで辞めはんねんて」
岸は、業界では名の通った名バーテンダーだ。小柄で物腰は柔らかく、いつも微笑みを絶やさない穏やかな人柄に惹かれて、多くの客が”La Pluie”に通っている。
バーテンダーという仕事に誇りを持ち、後輩への指導は厳しかったが学ぶべき事も多く、岸もまた惜しみなく自分の知識や技術を教えてくれた。
悠正にとって、恩人のような人だ。

「さよか。そら、寂しいな」
「ホンマに」
貞国の言うとおりだが、岸の年齢が年齢だけに引退は仕方ない。
「でな、岸さん辞めたあと、別のバーテンダーが来んねんて。オーナーの仲原さんが言うてた」
「あのバーは、岸さんでもってたようなトコあるさかい。後任はたいへんやな」
「ああ」
頷いたところで時計を見る。

「そろそろ出勤する時間や」
「せやな」
貞国は新聞を畳んでテーブルに置く。上着を着てカバンを持つ。
「ほな、あと片しとくし」
「ああ。ほな」
「気ぃつけて。またな」
玄関ドアを閉める貞国の背中を見送る。

「さて、と」
キッチンに戻って、朝食の後片づけをする。それから洗濯に取りかかる。浴室へ行き、洗濯カゴにたまったタオルやシャツ、下着などを洗濯機に入れてスイッチを押す。
顔をあげると、目の前に鏡がある。伸び放題のボサボサの髪で、顔がよく見えず、背は貞国と変わらないくらい高いが、細身の体をしている自分の姿が映っている。

・・・顔もイマイチ、性格も扱いづらくて素直やない。五福もなんで俺みたいなつまらん男と、ずっとつき合(お)うてんのやろな。
自嘲気味に笑って、浴室を出る。洗濯が終わるまで、部屋の掃除だ。
貞国は決してズボラな方ではないが、男の一人暮らしという気楽さと仕事が忙しいのとで、家事は後回しになっている。

だから悠正が来た時は、こうして代わりに片づけておく。別に、尽くすとか、そういう類の行為ではない。ただ単に片づいている状態が好きで、家事は苦にならないからしているだけだ。
悠正が部屋を片づけ、洗濯をし、料理を作り置きしている事について、貞国はやれともやめろとも言わない。嫌がってもいないので、悠正も気にせず続けている。

リビングを片づけて、寝室に移動する。寝乱れたベッドを整え、枕カバーを新しい物に換える。軽く叩いて、もとのように置く。
そして、ベッドの宮に飾ってある写真立てに手を伸ばす。そこには、学生時代の悠正と貞国が並んで写った写真が入っている。

二人は大学で出会った。悠正が誘われて入った古武道のサークルに、貞国がいた。
・・・真面目な顔して。
この写真は、ちょうど出会った頃に撮った写真だ。二人とも道着に袴を着て、ニコリともしないで突っ立っている。

出会った頃から貞国はとにかく無口で、よく言えば大人びていた。無駄な事はいっさい口にしないくせに、たまに口を開けば辛らつな言葉が飛び出した。
そんな貞国に反発も覚えたが、冷静で的確なものの見方に納得する事も多かった。
結局、そんなところに惹かれたのかもしれない。気がつけば、いつも貞国の姿を目で追っていた。

大学のサークルで出会って、かれこれ10年以上のつき合いとなる。
・・・まさか、こない長(な)ごつき合うとは、思てへんかったな。
写真立てのホコリをティッシュでふいて、宮に戻す。そのままベッドに腰をおろし、布団を眺める。
キレイに整えられた布団からは、昨夜の熱は微塵も感じられない。そこでキスをして、抱き合って、情を交わしたのがウソのように、静まりかえっている。
肌を合わせて情を交わしている時には、貞国としっかり結びついているような気がする。強く抱きしめられ、濡れた声で名前を呼ばれると、貞国から好かれているのかもと思う。

だが、普段の貞国は、まったく違う。
キスやハグはもちろん、手に触れる事すらしない。会話らしい会話もないので、睦言など聞いた事もない。
だが、それを不満に思う気持ちも、今の悠正にはない。

・・・しゃあない。五福は、そういうヤツや。
小さくため息をつく。と、浴室から高い電子音がする。どうやら洗濯が終わったようだ。もう一度ため息をついて、立ち上がる。

洗濯物を干して、ついでに日持ちのする料理を作り置きしておく。
最後にシンクの水滴まで拭いて、片づけは終わる。自分の荷物を持って、玄関で靴を履き、廊下に出て合鍵でドアに鍵をかける。
・・・後朝の別れ、か。
フッと思い出した言葉に口元を歪めて、悠正は乱暴に合鍵をポケットに突っ込んだ。





  2013.04.04(木)


    
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