カシャン。
ガラスの割れる音が、静かな部屋に鋭く響く。柊和美(ひいらぎかずみ)は、机についた自分の手と、落ちて割れたシャーレとを交互に見て、目を閉じる。
それまで座って顕微鏡を覗き込んでいたが、立ち上がって別のシャーレを取ろうとしたところ、立ちくらみをおこしたのだ。
ガラス製の底の浅い容器は和美の手から落ち、破片が床に散乱している。

「ああ…」
しゃがんで片づけなければならないが、今は手をついて立っているのがやっとだ。
「大丈夫か?」
すぐに、同じ部屋で作業していた虎ノ目魁(とらのめかい)が飛んでくる。魁は青い顔で浅い呼吸を繰り返す和美を支えて、手近なイスに座らせる。
「ケガ、ないか?」

「大丈夫や」
力強く言ったはずなのに、か細い声しか出ない。安心させるようにニッコリ笑ったつもりでも、弱々しい笑顔でしかない。
「いつもの、貧血や」

「薬は? ロッカーか?」
「ああ」
「取ってくるさかい、じっとしとき」
和美からロッカーのカギを受け取って、魁は実験室をあとにする。

一人残った和美は、机にヒジをついて大きくため息をつく。
和美と魁は、この血液と免疫を研究する機関に同僚として身をおいている。
長身で、誰もがうらやむ堂々たる体躯と、男らしい精悍な顔つきをした魁はまた、世話好きな一面も持っている。

比べて、自分はどうだ。身長こそ魁と同じくらいだが、線が細く骨ばかりが目立つ。おまけに、後天性の再生不良性貧血症で、スポーツはおろか長時間立っているのすらつらい。薬が手放せず、体が弱くてしょっちゅうカゼをひいている。
和美は白衣の袖から見える、自分の青白く細い手首をながめて、もう一度ため息をつく。

とにかく、魁が戻ってくるまでに、割れたガラスを片づけなければ。和美はゆっくり立ち上がり、床にしゃがんでガラス片を拾う。
「和美」
そこに、魁が戻ってくる。
「なにしてんね」
慌てて自分もしゃがむと、和美の手を取る。
「アカン。片づけは俺がするさかい、和美は座っとき」
そう言って、再び和美を座らせる。机の上には薬と、マグカップに湯気のたつコーンスープが置いてある。

「それ飲んで、それから薬。ええな」
「おおきに」
時計を見れば、すでに夜半過ぎになっている。この部屋に残っているのも、自分と魁の二人だけだ。実験に没頭するあまり、夕食を摂るのも忘れていたようだ。

「ったく。ちゃんと食べろて、いっつも言うてるやろ」
「かんにん」
「それに、ケガには気をつけろ、て」
魁が咎める口調になっているのには、訳がある。和美は貧血症なだけでなく、希少な血液型をしているため、少しの出血でも命取りになりかねない。

「けど、それを言うたら、魁もやないか」
魁もまた、和美と同じ希少な血液型をしている。同僚という以外、何の接点もなかった二人が親しくなったキッカケは、同じ血液型だと知ったからだ。
「そう。けど、俺はええの。おまえと違(ちご)て、ケガするようなヘマはせえへんし」
「うん」
温かいスープを飲みながら、和美は素直に頷く。

そして、思う。自分はいつから魁に恋をしているだろうと。身の程知らずのこの恋を、魁に告げるつもりはない。ただそばにいて、魁の存在を身近に感じる、それだけで満足しなければならない恋だ。そう考えている。

「はい、完了」
最後に消毒まで完璧にして、魁は和美の前にくる。
「どうや? 少しは楽になったか?」
医者の目をして脈をとり、下まぶたを診る。
「うん。おおきに」
「顔に赤みが戻ってきたな。良かった」
ほほに手をあてて、ニッコリ笑う。

魁がこんな風に邪気のない笑顔を見せるのは、和美の前でだけだ。普段の魁は感情を顔に表す事はなく、口数も少ない。寡黙で他人との関わりを極力避けている孤高の人と、まわりからは思われているはずだ。
そして、そんな魁に想いを寄せているのは自分だけでない事も、和美はよく知っている。

「キリのええところで、今日は帰ったらどうや。俺、送って行くし」
「そ、それは大丈夫や」
触れられたほほから、魁の温かな気持ちが伝わってくる。
魁自身もまた、周りから自分がどんな風に見られているか熟知しているはずだが、誰に対してもそっけない態度をとる。
ただ和美にだけ、優しい眼差しを向ける。

「僕の家とは反対方向やし、手間やないか」
慌てて顔を伏せて、小さな声で言う。自分だけに優しい眼差しを向けていても、それは体が弱いのを心配しているだけの事。それ以上の理由はないはずだ。
勘違いをしないように、魁の申し出は丁寧に断る。
「心配かけてかんにん。けど、もう大丈夫やさかい」

「そうか」
その言葉に納得したのか、魁は軽く和美の頭を撫でるとその場を離れていく。
和美は撫でられた頭にそっと手で触れて、それからゆっくり立ちあがる。貧血の症状はいくぶんやわらいだようだ。
魁に言われたとおり、キリのいいところで帰り仕度を始める。

「ほな、お先」
「ホンマに送っていかへんで、大丈夫か?」
「ああ」
再度確かめてくる魁に、これ以上は甘えられない。

「ゆっくり歩くし。ほな」
心配そうな顔をしている魁に軽く頭を下げると、和美は研究所をあとにした。



和美の勤める研究所から最寄駅までは、歩いて10分程度だ。和美はコートのエリをたて、マフラーをしっかり巻いてゆっくり歩く。住宅街からほど遠いこの付近では、夜半過ぎともなると人通りはほとんどない。街灯も所々にしか点いていないので、薄暗い感じがする。
だが、和美が肩から斜めがけにしているカバンのヒモには、反射材が縫いこまれている。魁が夜道でも目立つようにと、してくれたものだ。
豪快な性格で細かい事には無頓着に見えて、そのじつ魁は家事もこなす。体の弱い和美が寝込んでどうしようもない時には、食事はもちろん洗濯やそうじなどの身の回りの世話もしてくれる。

和美の両親は、とうにこの世にいない。兄弟もおらず、身寄りといえば遠い親戚がいるだけだが、それも遠方に住んでいるため、ほとんど会う機会もなく疎遠にしている。
魁も、幼い頃養子に出され、養父母が亡くなったあとは天涯孤独だと聞いた事がある。
外見も性格も正反対の二人だが、家族縁の薄い事や希少な血液型をしている事などもあって、他の人間では分からない哀しさやつらさを共有出来るからこそ、魁は自分に近しい感情を持っているのだろうと、和美は思う。

体が弱っている時に受ける魁の気づかいは、純粋に嬉しい。
それに、エプロンをつけて台所で料理に精をだす魁の姿を知っているのは、おそらく自分だけだろうと思うと、少しだけ優越感を感じる。

似合わない姿を思い出し、口元を緩めかけて和美はハッと気づく。夜道に伸びる、街灯に照らし出された細長い自分の影に。
体も弱く、男のくせに貧血症で薬が手放せず、消極的な性格でメガネをかけた地味な外見の自分と、堂々とした魁が釣りあうはずがないと、自分の影が戒めているようで、思わず空を仰ぎ見る。

今夜は満月。中空に真円の月が浮かんでいる。
…わかってんね、そんなコト。魁は親友。それ以上は、バチが当たる。
足をとめて、満月を眺める。
…けど、もし神さまが一つだけ願い事を叶えてくれはるんやったら、たった一度でええさかい、魁と。
そこまで考えて、和美はにがく笑う。

いくら魁が他の人間にそっけないと言っても、魁ほどの美丈夫ともなれば周りが放っておかない。事実、魁には今まで何人もの恋人がいた。長続きはしないようだが、いずれも美しく聡明な女性ばかりだった。
同性で、しかも地味で10人並以下の自分を相手にするわけがない。

和美は小さく頭を振ると、ポケットに手を入れ背中を丸めて歩きだす。
しんしんと冷える静かな夜。和美は白い息を吐きながら、ゆっくりと歩く。こんな夜は風呂で体を温めて、早く寝床にはいりたい。
そこの角を曲がれば、駅へと続く大通りに出る。

…この時間やったら、そない待たんと電車に乗れそうやな。
腕時計で時間を確認しながら、角を曲がる。
とたんに、熱いほどの光量に体がさらされる。反射的に顔の前に手を持ってきた和美の目は、大きな車を認める。その車は、コマ送りのように和美の方へ一直線に近づいてくる。

音もなにもない。恐ろしい程の静寂の中で、運転手の驚いた顔と車が近づいてくるのだけ、明確に分かる。そして、このままでは、自分はこの車に撥ねられてしまう事も。
だが、体は動かない。呼吸すら忘れて、ただ車が近づいてくるの眺めている。

…魁。かんにん。
瞬間、和美の脳裏に魁の優しい眼差しと、真円の月とが浮かんで、消えた。




  2012.12.12(水)


    
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