ちぎれるほどに冷たい水に手を入れて、長方形の白い物体をすくい上げる。
「はい、奥さん。もめん1丁」
「おおきに」
「150円です」
”ももせ豆腐店”の店主、桃瀬銀士(ももせぎんじ)は鮮やかな手つきでそれをビニールに入れ、笑顔つきで渡す。
長身で筋肉質の体に凛とした端正な顔立ちをしているため、冷徹な印象を与えがちな銀士だが、笑うと人なつっこい顔になる。

「今夜、なに作るんでっか?」
「そうねえ、今夜は冷えそうやし。湯豆腐でもしよか」
「ほな一緒にもろみはどうです? 味のアクセントにもなるし、発酵食品やさかい整腸作用もありますよ」
「あら、そうなん。ほな、いただいてこか」
「おおきに。油揚オマケしときますさかい、これでみそ汁も作ってください」
「そうするわ。ホンマ、商売上手やねえ」
年配の主婦にそう言われて、再び白い歯を見せて笑う。

「ほな、また」
「毎度おおきに」
大きな体を愛想よく曲げて、主婦を送りだす。店に入って手をふきながら時計を見れば、ほどなく午後5時。今日もまた豆腐は完売しそうだ。
この”ももせ豆腐店”は銀士の父親が創業した店だ。父親の死んだあとは銀士の母親が、そして今は銀士が跡を継いでいる。原料の大豆と水にこだわった手作り豆腐として、味にうるさい割烹や近所の主婦を相手に、大きな商いではないがなんとか生活できている。

…そろそろ、夕飯の仕度をせなアカンな。
銀士の体に合わせた大きな前掛けをはずし、たくし上げていた袖もおろして、店の奥へと行く。長ぐつを脱いでガラス戸を開ければ、そこはもう居間だ。
居間に上がって左手が台所になる。狭い家だが、雨風しのげて商売も出来る。これで充分だと、銀士は思っている。

冷蔵庫を開け、夕飯のおかずを考える。魚の干物があるからこれを焼いて、大根おろしを添えようか。あと、豆腐のみそ汁を作って。
ヤカンをガスレンジにかけ、手早く材料を出してテーブルに並べる。

と、店先に人の気配がする。
「いらっしゃ…」
台所から出て、長ぐつをはいた銀士は、店先に立つ人物を見て息を止める。

およそ豆腐屋にはそぐわない、外国製のスーツに革のコートを着た背の高い男が立っている。
「よぉ」
男は銀士の姿を認めると、低く声をかけ、口の端を上げる。
「捜したで、銀士」

「鋭心」
コートのポケットに手を突っ込んだまま銀士を見つめる男の名は、大神鋭心(おおがみえいしん)。銀士は鋭心の名前をつぶやいて、あとは声も出ない。
「なんや。幽霊に遭(お)うたような顔して」
鋭心と呼ばれた男は、コートを脱いで手に持つと、いまだ一歩も動けない銀士の側までズカズカ近づいてくる。

「久しぶりやな」
「いつ、ムショ(=刑務所)から?」
「ああ。3ヶ月前や。刑期は8年やったけど、模範囚やったさかい、早よ出てこれたんや」
目の前に立つ。二人の背丈はほとんどかわらない。ただ、数年の歳月を経て、もともと端正だった鋭心の顔は精悍さを増し、体はスーツの上からでも分かるほど鍛えられている。

「そうか」
この邂逅に、銀士の心はざわつく。しかし、いっさい表情は変えずにつぶやく。
「それだけか?」
鋭心の大きな目がギラリと光ったとたん、いきなり銀士のアゴをつかんで上を向かせる。
「ホンマ、捜したで! シャバに出てからこっち!」
睨みつけて、ますます手に力をこめる。

だが、銀士は顔色ひとつ変えない。
「…ちっ」
鋭心は小さく舌打ちして、銀士のアゴを放りだす。
「弁解もナシ、かいな」
吐き捨てて、居間への上がり口に腰かける。長い足を高く組み、下から銀士を睨む。

「俺が懲役くろてる間に、幹部やったおまえが姿消して。それから日高組にシマ荒らされたの、知ってんか?」
「ああ」
小さく頷く。

「知ってんのやったら、なんで!」
力任せに、鋭心は居間の畳を叩く。古い家が大きく揺れる。
「なんで、戻ってけえへんかったんや! おまえもいっぱしの極道やったら、黙ってられんやろ!」
火を吐くような鋭心の怒りに、銀士はただ黙って立っている。
「おまえの言い分があれば、聞いたろと思てた! けど、なんも言わへんのか!」
もう一度、畳を叩く。

「なんの用で来たんや?」
怒りのあまり、荒い呼吸を繰り返す鋭心をじっと見つめて、静かに銀士は訊く。
「なんの用やて!」
訊かれて、鋭心ははじかれたように立ち上がると、銀士の胸倉をつかむ。
「それが、俺に対する口のきき方か!」

大きな目には怒りの炎が渦巻き、人一倍大きな犬歯をむき出しにして鼻白む。
…変わってへん。昔のまんまや。
つい、笑みをもらす。
「なに笑(わろ)てんね!」
すぐに平手が飛んでくる。口が悪いのも短気なところも、昔のままの鋭心だ。

「なんとか、言(ゆ)え!」
胸倉をつかむ手に力がこもり、鼻と鼻とがぶつかるくらい間近に引きよせられる。
「俺とおまえで”金狼””銀狼”て名前を売ってたのが、今じゃこんな汚い豆腐屋のオヤジか! 情けないと、思わへんのか!」
「思てへん」
「なんやて!」
息まく鋭心に対して、銀士はあくまでも冷静なままだ。そんな銀士に二の句が継げず、鋭心はただ銀士を睨む。

ふいに、台所から音がする。かけっぱなしだったヤカンにお湯が沸いたようだ。銀士は長ぐつを脱いで上がると、台所に行きガスを切る。
「用があれへんのやったら、帰ってんか。商売の邪魔や」
「用はある」
鋭心も靴を脱いで、銀士の後ろに立つ。

「おまえが姿消したコト、シマ荒らされても戻ってけえへんかったコト、その理由もなんも言わへんコト。全部水に流したるさかい、組に戻ってきい」
「断る」
ヤカンからポットにお湯を移しながら、顔も上げずに銀士は言う。
「そんな用やったら、帰って、もう来んといてくれ」

「銀士!」
銀士の肩をつかんで、力ずくて自分の方を向かせる。両肩に手を置いて、強く揺さぶる。
「おまえ、本気で言うてんのか! どうなんや!」

「ただいま」
そこに、勝手口から元気な声がして、小さな男の子が顔を覗かせる。
「寒かったあ」
「おかえり、隆太郎(りゅうたろう)」
肩をつかまれていた鋭心の手をはずし、銀士は隆太郎と呼んだ子に顔を向ける。
「みそ、買えたか? 重いモン頼んで、かんにんな」

「うん、買(こ)うて来たけど。この人、お父ちゃんのお客さん?」
買い物袋を開けながら、隆太郎は初めて見る鋭心をいぶかしげに見上げる。
「お父ちゃん? お父ちゃんやて?」
鋭心は鋭心で、自分を見上げる隆太郎をまじまじと見る。
「銀士、なんの冗談や。おまえがお父ちゃん、て」

「隆太郎は、俺の子や」
混乱している鋭心に、静かな声で銀士は言う。
「わかったら、もう2度と来んといてくれ」

「…くそっ」
冷たい銀士の横顔と、いまだ不思議そうな顔で自分を見上げる隆太郎の顔とを交互に見て、鋭心は捨てゼリフひとつ吐かずに出ていく。

その後ろ姿を見送って、銀士は小さくため息をつく。
「お父ちゃん、今の人、誰?」
「昔の、知り合いや」
「ふぅん」
銀士の説明に納得したのか、隆太郎はそれ以上何も訊いてこない。

「今から夕飯作るさかい、ちょお店見といてんか」
「うん」
隆太郎は頷いて、居間に置いていた携帯用ゲーム機を持つと、店番に出る。まだまだ遊びたい盛りだろうに、分別よく手伝ってくれる。

男手ひとつで育てているので、母恋しい時もあるだろうが、そんな泣き言も言わない。不憫だと、いつも思う。
だからこそ、精一杯の愛情を注いで、一人前に育ててやりたい。
「じき夕飯や。お菓子は食べたらアカンで」
「はーい」

元気のいい返事に目を細める。そして、顔を上げた拍子に、前のガラスに自分の顔が映る。さっき、鋭心に叩かれたほほが赤くなっている。
…鋭心。
ふいに、痛みがおそってきた。




  2012.07.07(土)


    
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