3年つき合っていた男に、一方的に別れを告げられた夜。
とにかく苦しくて悲しくて、気が動転して、いつもは飲まない酒を手当たり次第に飲んで…。

翌朝、姫里歩(ひめさとあゆむ)は、猛烈な吐き気で目が覚める。バタバタとトイレに駆け込み、
胃の中の物を全て出す。
「うっ、」
それでも、何度も何度もこみ上げてくる嘔吐感は少しもおさまらず、もう苦い胃液しか出なく
なっても浅い息をくり返す。

ようやくトイレから出て、冷たい水で顔を洗う。鏡を見れば、ひどい顔だ。
たった一夜のことなのに、ほほはこけ、目は落ちくぼみ、顔色もねずみ色でうす汚れて見える。

失恋したのは、これが初めてやない。鏡の中の自分に、そう言い聞かせる。
吐くほど辛いのは初めてやけど、時間がたてばきっと忘れられる。
「うっ」
また、そぞろ吐き気に襲われながら、歩はそう思っていた。



しかし、いつもなら1週間もすれば治まる失恋の傷みも、今回は少し勝手が違う。胸の痛みは
ともかく、2週間以上もふいに吐き気に襲われるのだ。
長身で痩せ気味ではあるが、健康だけが取得の歩にとって、こんな体験は初めてだ。とりあえず、
この吐き気が心配で、女医の友人宅へ相談に行く。

「で?」
少々不機嫌な声で、殿村晶(とのむらあきら)はマンションの玄関口に立つ。
「こんな時間に来るやなんて、よっぽどの急用なんやろうね」

「かんにん」
手を合わせて、大きな身体をかがめるようにして謝る。
「迷惑やろうとは思てんけど、仕事終わって来たもんやさかい」
夜の10時をまわった時間だ。普通なら人を、それも独身の女性を訪ねる時刻ではないが、中学、
高校と同級生で、30歳を越えた今でも気の置けない間柄の晶ならかまわないだろうと、思って
来たのだ。

「ま、ええわ。上がって」
「おおきに」
晶も、歩に手を合わせられたら弱いのだろう。苦笑しながらスリッパを出してくれる。

「で、どないしたの?」
「うん。僕、最近なんや身体の調子が悪くて、ほんで晶ちゃんに診てもらおと思て」
「歩くん」
前を歩いていた晶は、立ち止まり、腰に手をあてて歩の顔をのぞき込む。

その目は、そんなコトでこんな時間に来たんかと、非難の色を含んでいる。
「ぼ、僕の友達で医者してんの自分くらいやし」
「そらそうやけど。私、産婦人科医やない」
「医者には、かわらんやろ」

「…しゃあないわね」
晶は軽く吐息をついて、歩を居間のソファに座らせる。
「ほな、シャツのボタンはずして、待ってて」
「ああ」

言われた通り、上着を脱ぎ、シャツのボタンをはずして待っていると、ほどなく白衣に聴診器
などを持った晶が、手を拭きながら出て来る。
「で、どうあるの?」
「う…ん。ふいに吐き気に襲われたり、熱も微熱が続いてるし」
「そう」
聞きながら、脈をとったり、血圧を計ったり、聴診器を胸にあてたり。

晶とは、別々の小学校から進学した中学校で、同じ部活動に入ったのがキッカケだから、
かれこれ20年近いつき合いになる。
奥手でひっ込み思案な歩と、男まさりのサバサバした性格の晶は妙にウマが合い、別の
大学に進学して別の職業に就いても、こうやってお互い行き来している。
頭の回転も速く、時には辛らつな意見も言うが、そのくせ自分をいつでも助けてくれる晶を、
歩は同じ歳でも姉のように頼りに思っている。

「はい、うしろ向いて」
今度は背中に聴診器をあてる。背中が終われば、目や舌を、晶は医者の顔で診ていく。
「私は大人の男性は専門とちゃうから、正確な判断はでけへんけど、特に異常ないなぁ。
吐き気はヒドいの?」
「2週間くらい前から、おさまらへんね。卵や生魚や、お米の炊ける匂いかいだだけで、
吐くんやで。もうしょっちゅうや」
「へぇ。…まぁ、その症状に思い当たるフシがないコトもないけど」
聴診器を首にかけて、晶は言う。

「な、なんや。まさか、ガンとか…」
「アホな」
サッと顔色を変えた歩を、豪快に笑いとばして、
「つわりや、つわり」

「つわり?」
一瞬、歩の目は点になる。
「つわりて、妊婦さんがなる、アレ? んなアホな」
「せやからアホなて言うたんや。男の歩くんに、つわりがあるわけないしなぁ」
と、何の気なしに、晶は歩の下腹部に聴診器をあてる。

「え…」
とたんに、顔色が変わる。
「ど、どないしたん?」
晶の様子に驚いて訊くが、何も答えず、
「ね、ベルト緩めて、横になってんか」
真剣な声に、歩は言われたとおりベルトを緩めて横になる。

晶は物も言わず、歩のパンツのボタンをはずしジッパーを下げる。そして、下着ごと腰骨の
ギリギリのところまで下げる。
「あ、晶ちゃん」
「シッ」
いきなりのコトに戸惑いを見せる歩を、晶は医者の目で黙らせておいて、あらわになった
下腹部に再び聴診器をあてる。

それは、晶は歩のセクシャリティを理解しているし、20年来の友人で、頼りになる存在だが、
この格好はさすがに恥ずかしい。
だが、真剣な顔で自分のお腹の音を聞いている晶に、歩は何も言えない。

「こ、これ…」
ある箇所に聴診器をあてた瞬間、晶の顔色がサッと変わる。小さくつぶやいた唇も、わなわな
震えている。

「晶ちゃん」
勝気で冷静な晶が見せた表情の変化に、よほど悪い病気が見つかったのではと、歩は不安に
なる。
「どないしたん?」

「え」
声をかけられ、晶はようやく普通の顔に戻る。あてていた聴診器を、またもとのように首に
かけると、
「も、もうええわよ。服着て」
どもりながらそう言って、立って奥へとひっ込む。

…いったい、どうしたんや。
不安に思いながら服を直すと、白衣を脱いだ晶が現れる。
その表情は、ひどくショックを受けた人のように、やつれて見える。

「晶ちゃん。僕、悪い病気なんか?」
「病気? ちゃうわよ。なに言うてんの」
明るい声だが、いくぶん顔はひきつっている。
「正直に言うてや。僕と晶ちゃんの仲やろ。悪い病気なんか?」

「ホンマ、病気とちゃうわよ。けど、」
ここで言いよどんで、
「ここじゃ正確な診断はつかへんさかい、明日もいっぺん病院の方に来てくれへん? 歩くんの
都合のええ時間でかまへんさかい」
「わかった」
結局、晶の驚きの理由を聞き出せないまま、翌日の診察を約束していた。




  2011.12.07(水)


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