完結


   


有沢晃揮(ありさわこうき)が初めてその男に会ったのは、高い高いビルディングへと続く、広い広い
階段でだった。

その男は階段の上から、まるで王様のように4、5人のお付きの者をはべらせて、コツコツとゆっくり
降りてくる。

しかし、その時の晃揮は、上から降りてくる男の存在など、まったく気づいていなかった。

その時、晃揮は三十近いのに定職にも就かず、バイトや日雇いをしては小銭を稼ぎ、小銭を稼い
ではプラプラ遊ぶ、そんな生活をしていた。
いい若い者がと、見かねて回りが職を紹介してくれても、2、3ヶ月ともたない。
言葉遣いも悪く態度も横柄で、サボッてばかりいるくせに、俺はこんな所におるようなタマやない、
そんなバカみたいな事を言ってはクビになったり、自分から飛び出したり。それの繰り返しだ。

その日は冬まだ浅い晩秋の、赤い太陽がビルの間に落ちていこうとする、どことなく淋しさを感じ
させる日だった。

職無しの晃揮は、人づてにもらった紹介状を手に、汚いトレーナーにやぶれかけのジーパンという
恰好で、うつむきかげんに階段を上りはじめる。

トン!
だから、階段の中ほどでその男とぶつかるまで、誰かが降りて来ているとは思いもしない。
「てっ」
そんなに強く肩口があたったわけではない。が、いつもの癖でジロリと相手の顔をにらみつける。

しかし、相手の男の顔を見たとたん、晃揮はウッと言葉をつまらせる。
背は自分と同じくらいだろうか。日本人にしては長身の部類だ。それに、歳も余計に離れていない
ように見える。
だが、男は上品な顔立ちをしており、一瞥しただけで自分のようなハンパ者とは生まれも育ちも
まったく違う、気おくれするような気品を持っている。

「失礼。大丈夫でっか?」
「あ、ああ」
静かな、だが人の心に直接響いてくるような声だ。薄いメガネの奥の理知的な瞳に見つめられた
とたんに、晃揮は毒気を抜かれてしまう。 

「そう、 ほな」
男は晃揮の言葉に軽くうなずくと、洗練された身のこなしで軽く頭を下げ、コツコツと階段を降りて
行く。
その後を、女を交えた4、5人の集団がしずしずとついて行く。

やがて、一団が階段を降りきったところに大きな黒塗りの車が横づけされる。
男は何ら臆することなくサッと乗り込むと、あっという間に行ってしまう。

ハァ。
知らず晃揮の口から吐息が洩れる。それほど、男は晃揮に強烈なインパクトを与えていた。

歳は自分と同じくらいに見えるのに、あの落ち着きぶり。外国製の、きっと値段を聞いたら目玉の
飛び出るようなスーツを自然に着こなし、お供を何人もひきつれている。それなのに、少しも気取った
ところがない。

カッコええなぁ。
晃揮は男の乗った車が見えなくなるまで、じっとその場に立ちつくしていた。



次にその男と会ったのは、1週間後の同じビルの駐車場だった。

晃揮は社長つき運転手として神崎アセットマネジメントという大きな会社に就職出来たのだが、お仕着せの息が詰まるような制服を着せられ、ハゲかかった人事部の男に連れられて、地下の駐車場で待つこと5分。
エレベーターのドアが開いたかと思うと、
「おじぎして!」
頭をぐいぐい押されて、ほとんど直角になるまで体を折られる。

「社長、お早うございます」
「お早う」
晃揮からは社長と呼ばれた男のピカピカの靴と、シワひとつなく折り目の正しいズボンしか見えない
が、深いバリトンはまだ若い男の声のようでもある。

「この人は?」
「は。今日づけで社長の運転手になりました有沢です。有沢君、ごあいさつして」
ようやく、顔をあげる。

「あ」
目の前に、一週間前のあの男がいる。
この会社の重役か何かだと思い、嫌な事前研修にも耐えて、社長つきの運転手にもぐりこんだ
ところ、その社長本人があの男だったのだ。

「なにか?」
しかし、男の方は晃揮をまったく覚えていないようで、あ、と小さく言ったきり動かない晃揮を、不思議そうな顔で見ている。

「い、いえ。お、俺、有沢ていいます。ヨロシク」
ぶっきらぼうな口のきき方に、一緒にいた人事部の男はギョッと目をむくが、男は口許に優しげな
微笑をたたえたまま、
「有沢君かぁ。下の名前は」
訊いてくる。

「へぇ。コウキ、です」
「どんな字?」
「コウは日に光。キは揮発の揮や」
「ほぉか。僕は神崎鷹志(かんざきたかし)。後ろにいてんのが秘書の野宮千晶(のみやちあき)
さんや」
神崎と名のった男は、カバンを持って後ろに立つ、メガネをかけた女性を紹介する。
「よろしく」
ニコリともせずに短く言う。
若いし美人だが、氷のように冷たくて気の強い女だと、晃揮は思う。

「ほな、さっそくやけど、F銀行まで行ってくれるか。約束は9時やったかな、野宮さん?」
「はい」
「ほな、9時に間に合うように、有沢君。…有沢君はカタすぎるなぁ。…せや、晃(こう)さんにしよ。
それでええか?」
「はぁ」
「よし、決まり。晃さん、車まわしてんか」
「はい」

社長車のリアシートにおさまって、秘書から今日の予定を聞いている鷹志の顔を、晃揮はルーム
ミラーでチラチラ見る。
最初に階段で会った時に感じた通り、気取りのない性格のようだが、思っていたよりもテンポはトロいようだ。
若くして社長と仰がれるぐらいだから、本当はスゴい男なのだろうが、今はまだその片鱗すらうかが
えない

そして、何度目かにチラリとルームミラーに目をやると、かっちり野宮の方と視線が合う。
「…やっぱり、どこかで見たと思たら」
野宮は低いトーンでそう言うと、
「あなた、一週間くらい前にボスにぶつかった人やないの。ボス、覚えてまへんか、玄関で」

「…ああ」
しばらく考えて、鷹志は答える。
「あの時の。なら初めましてやなかったんやな。そら失礼した。けど、見違えてもォたで」
「へへ」
何となく誉められたようで、晃揮はうれしくて新品の帽子をクイと下げる。

「けど、どうしてあなたのような人がボスの運転手に?」
この言葉にはカチンとくる。
「よお、姉ちゃん。あなたのような、とはどういう言いぐさや」
ルームミラーごしに野宮をにらみつけながら、凄味をきかせた声で言う。

「な、なァに、その口のききかたは!」
「車内で大声出しィな。あんたのキィキィ声でハンドルとられてまうやないか」
「なんですって!」
秘書の野宮を冷たいなんて思ったのは、晃揮の認識不足だ。が、気の強いところは当たっている。

「まあまあ」
ケンカごしになりつつあるのを、鷹志は穏やかにとりなす。
「野宮さん、言い過ぎや。晃さんも。僕が人事部長に運転手には一番若くて一番健康そうな人をて、
頼んでおいたんや」
「そうでしたか」
野宮は秘書である手前、社長の意見にしぶしぶ納得する。

「そうや。とにかく、これから仲良く頼むで。…あ、そこ右に曲がってんか」
どうやら鷹志は自分を気にいってくれたようだ。それに気の強い秘書がへこまされたのも気分が
いい。

晃揮は上機嫌で右のウインカーをつけて、F銀行の大きな駐車場へと入る。
「時間ピッタシやな。ほな、1時間くらい待っといてんか」
「ああ」

社長車をとめた晃揮は、車から降りて後ろのドアをあける。
「あの、俺、待ってる間、なにをしてたらええんやろか?」
車を降りる鷹志に訊いてみる。
「好きなように使てや。せや、トランクに雑誌が積んであるはずやさかい、それでも読んどったら
ええわ」
「へ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
鷹志はクスクス笑いながら、晃揮の言動にいちいち眉をつり上げる野宮を従えて建物の中へ入って
いく。

「けっ」
野宮の形のいい尻にうそぶいて、晃揮はトランクに雑誌を探す。
が、鷹志のいう雑誌とはマンガやゴシップ誌の類いではなく、経済論や株式の相場なんていうカタい
ものばかりだ。とたんに読む気がうせる。

やっぱりあの男、俺とは違うで。
晃揮はキチンと整理された雑誌を見ながら、短く吐息をついた。




  2011.06.01(水)


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